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千葉氏の掲示板1.3
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無題 投稿者:ちばけんの千葉一族 投稿日:2008/09/30(Tue) 19:30:03 No.281  
私の家も千葉一族系と伝わっていて、家紋は九曜紋です。
最近百済との深い関係が明らかなってきているそうで気になっていろいろ調べているうちに、百済の古い遺跡から九曜紋らしきものがたくさん見られました。
http://inoues.net/korea/koushu_museum.html
平氏の祖先神も百済王ということですし・・・
一体何なんでしょう・・・ショックというか・・・
だれかお詳しい方いらしたら教えてください。



Re: 無題 平家子孫 - 2008/10/02(Thu) 02:48:58 No.282  

九曜紋は古代インド仏教の九曜曼荼羅からきています。
インド=中国=朝鮮半島=日本の流れかと・・・あくまで自論です。

百済は仏教国だったそうですから。



韓国朱蒙王 投稿者:奥州千葉一族 投稿日:2008/09/23(Tue) 21:53:52 No.274  
こんにちは、些細な自分がテコンドをしていて歴史が好きなので調べてみました。自身は親戚に胤の付く親戚がいて、頼朝公に従ってきた人が祖と聞いています。桓武帝の母新笠は和氏で有名です。推測が正しければ。百済の王族で祖は温ジョ王でその父は東聖明王の朱蒙なので、確信してますが。どうでしょう。ご意見ください。


Re: 韓国朱蒙王 桓武末裔日本人 - 2008/09/27(Sat) 03:53:52 No.275  

http://www.f5.dion.ne.jp/~t-izumi/korea2002.htm#kanmutei

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2787311.html



Re: 韓国朱蒙王 平家子孫 - 2008/09/27(Sat) 04:33:02 No.276  

平家=朝鮮民族?


Re: 韓国朱蒙王 管理人PC - 2008/09/27(Sat) 09:05:01 No.277  

奥州千葉一族さん、こんにちは

 高野朝臣新笠は『続日本紀』には祖は百済の武寧王とされています。新笠の出身である和氏の姓である「史」は、帰化人へ下されたものなので、帰化人の流れをくむ一族なのでしょう。

 和氏に関する系譜は、母・新笠を敬愛する桓武天皇が、母の出身氏族である和氏の系譜を和気清麻呂に命じて新たに纂させた「和氏譜」があったようですが、現在は伝わっていません。桓武天皇はこれを見て大変満足したとあるので、高貴な系譜になっていた、つまり帰化人の末裔である和史にとっては最大級に高貴な存在である、朝鮮半島の旧王家のひとつ、百済の王裔としての系譜であったと推測されます。『続日本紀』はこの系譜を踏襲したものでしょう。

 和乙継があまり高い家格ではなかったことが、百済王の末裔ではないということはできませんが、武寧王が亡くなって数百年、その伝がどれだけ正確に伝わっていたのか、疑問が大きいのも事実です。

「平家=朝鮮民族」については、桓武天皇の母・高野新笠が帰化人である以上、大変な広義で見ると、朝鮮系氏族の血が微かに含まれているかもしれません。ただ、高野新笠の時点ですでに日本に下って数百年、数代を経ており、「朝鮮民族」とするには語弊があります。

 東聖明王こと朱蒙の話については、日本における瓊瓊杵尊や神武天皇あたりの、史実というよりも神話に近い世界ですが、彼らが実際にいなかったという確証もありませんので、私としてはこれ以上何も申し上げられません。



Re: 韓国朱蒙王 皇族末裔 - 2008/09/28(Sun) 17:54:27 No.278  

こんにちは、はじめまして。

上記「平家=朝鮮民族については、桓武天皇の母・高野新笠が帰化人である以上、大変な広義で見ると、朝鮮系氏族の血が微かに含まれているかもしれません。ただ、高野新笠の時点ですでに日本に下って数百年、数代を経ており、「朝鮮民族」とするには語弊があります。」

ということは、
高野新笠は武寧王から数えて10世代目。
平常兼以降は桓武・房総平氏末裔、千葉貞胤以降は千葉氏末裔・千葉一族というのは語弊?

本サイト冒頭「千葉一族〜房総半島に栄えた桓武天皇の末裔」・・・



話は変わりますが管理人さんは千葉一族末裔でいらっしゃるのでしょうか?




Re: 韓国朱蒙王 平家子孫 - 2008/09/28(Sun) 19:58:52 No.279  

桓武天皇が創建=平野神社=平氏の氏神=百済王
http://abekawamoti.at.webry.info/200505/article_5.html

平家=百済人末裔?
http://www.geocities.jp/ku_da_ra/ETC/ango.htm



Re: 韓国朱蒙王 管理人PC - 2008/09/28(Sun) 21:27:24 No.280  

奥州千葉一族さん、こんにちは

>高野新笠は武寧王から数えて10世代目。
平常兼以降は桓武・房総平氏末裔、千葉貞胤以降は千葉氏末裔・千葉一族というのは語弊?

そのようなご理解であれば、それでよいでしょう。

>話は変わりますが管理人さんは千葉一族末裔でいらっしゃるのでしょうか?

そうかもしれませんね。

>桓武天皇が創建=平野神社=平氏の氏神=百済王

平野神社は確かに平氏の氏神でもありますが、桓武天皇以降の賜姓氏族(源氏や平氏も含め)の氏神となっていました。桓武天皇以降、祖先神のひとつとして祀られたようですね。

>平家=百済人末裔?

ご質問者のお考えに従えば、おそらくそうなるでしょう。



千葉氏家臣・林田氏について 投稿者:林田 投稿日:2008/07/06(Sun) 06:30:53 No.228  
管理人様 
突然の書き込み失礼します。

○「房総里見軍記」中、木内氏家臣『林田小太郎』

○千葉胤富殿の黒印状「海上八幡宮神事銭徴収」中の『林田清右衛門尉』

○千葉邦胤殿「龍大夫文書」原氏関係の手紙の中に『林田胤俊・玄蕃亮』

などの千葉氏関係資料に見られる
「林田氏」について管理人様のおわかりになる範囲で教えて頂けないでしょうか?

宜しくお願い致します。








Re: 千葉氏家臣・林田氏について 管理人PC - 2008/07/07(Mon) 00:19:24 No.229  

林田様

『龍大夫文書』によれば、玄蕃亮胤俊は邦胤をして「屋形様」と称し、「下総作倉」とありますので、邦胤に仕えた人物でしょう。

また、胤俊は「わたくし一代、作倉にはんしやう」という文言があることや、胤富の代から見え始めていることから、おそらく東総を出自とし、もともとは海上氏に仕えていた家なのかもしれません。



Re: 千葉氏家臣・林田氏について 林田 - 2008/07/07(Mon) 01:41:51 No.230  

管理人様、 
有難う御座いました。

たびたび申し訳ありませんが、
胤俊は「胤」が使われていることから、千葉一族から分流した家系なのでしょうか?




Re: 千葉氏家臣・林田氏について 管理人PC - 2008/07/07(Mon) 02:29:27 No.231  

林田様

 胤富の代から見えるということや、「林田」という名字地が不明、千葉氏の系譜の中に見えないという点を見る限り、海上氏に仕えていた家柄で、千葉宗家の譜代ではないのかもしれません。実は千葉氏の直臣層の中には、他国を発祥地とすると思われる諸家が散在しています。

 また、「胤」という一字につきましては、胤富または邦胤あたりの片諱を給わっている可能性があります(「胤」字を軽々しく名乗ることはできなかった)ので、一概に千葉一族かどうかは判断ができません。



Re: 千葉氏家臣・林田氏について 林田 - 2008/07/07(Mon) 07:59:37 No.232  

管理人様、
お忙しい中何度もレス有難う御座います。

千葉一族も他国戦国大名のように一族ではない直臣に対して名を給わせることがあったのですか?



Re: 千葉氏家臣・林田氏について 管理人PC - 2008/07/07(Mon) 22:20:48 No.233  

林田様

一字書出の文書が遺されていないため、林田玄蕃ほか直臣層への偏諱については確実なことは言えません。千葉惣領家の家宰、佐倉の原親幹や原邦長、円城寺邦貞などは片諱を受けていたのでしょう。



Re: 千葉氏家臣・林田氏について 林田 - 2008/07/08(Tue) 13:05:09 No.235  

管理人様
有難う御座いました
(遠いですが昔、播磨に林田庄があったみたいです)


千葉介勝胤・昌胤の時代と思われる、
房総里見軍記中の八話・九話
足利義明・里見義成による【七塚合戦の事】【木内殿落城】の事
は千葉氏関連の資料にみられるのでしょうか?

千葉四天王・木内氏は八話で
○下総の国主木内殿
○鎌倉管領上杉氏より下総守護申付けられ、大領主にて強力
とありますが当時の下総守護は木内氏だったのでしょうか?

又、九話で義明・義成軍が
○明応二年四月、木内殿居城生実山に押寄せ給ふ
とありますが当時の城主は原氏ではなかったのでしょうか?

里見家の鬼将と言われた安西氏、他家臣と激戦した
木内氏の勇士と解説される、
『林田小太郎』は存在したのでしょうか?

マイナーなことばかり質問してすいません。
宜しく御願いします。




Re: 千葉氏家臣・林田氏について 管理人PC - 2008/07/09(Wed) 00:12:37 No.236  

林田様

『房総里見軍記』はまだ拝見したことがありませんので、なんとも言えませんが、『香取郡誌』の木内氏の項目には、木内氏と里見家の正木氏が戦ったことや、里見家を追って小弓のあたりまで攻めたということが記載されています(ただし、室町後期の話)。

『房総里見軍記』はあくまで軍記物ですので、それがそのまま史実である可能性は低いでしょう。「林田小太郎」の実在についても不明です。



Re: 千葉氏家臣・林田氏について 林田 - 2008/07/09(Wed) 06:13:07 No.237  

管理人様
前書きもなくいきなり投稿し失礼しました。
掲示板記載の皆様と同じく先祖が気になり調べ始め、
千葉氏HPにたどり着きました。

実は私の家は代々、本佐倉近くに住んでいて旧家と伝えられていました(別に家柄、家系自慢とかではなく先祖探求理由の一つとして)。

地区名は古文書、地区内にある石碑などから少なくとも室町初期くらいからあるみたいです。

家紋は神紋「丸に三つ柏」です。

創建南北朝時代と伝えられる地区内の「熊野弐社」、

時の武家政権に持て流行されたとされる「臨済宗」

と古くから関係しています(江戸初期に寺の火災で過去帳その他焼失し系図などはわからなくなってしまったそうです)。


肥前国に林田氏が鎌倉後期から見られるのでそちらの流れを組んでいるのかなぁと勝手に昔は思っていましたが、

ネット検索で千葉氏家臣に林田がいたのを
こちら森様のサイト
http://homepage2.nifty.com/mori-chan/sakusaku/1_4.htm

で知り、問い合わせたところ具体的に教えて頂き、
それを元に調べたところ
玄番亮「胤俊」を見つけビックリして投稿した次第です。

林田本家近くに妙見様もありますが地区内では特に信仰してはいなく(すいません)、家紋は星紋ではなく、近隣には千葉一族の城跡や旧家臣の家柄の苗の方々が多くみられますがよくわからないのが実情です。



Re: 千葉氏家臣・林田氏について 千葉氏愛好家 - 2008/07/12(Sat) 15:23:23 No.242  

初めまして。県内在住の千葉氏愛好家と申します。
いつも千葉氏HP拝見させていただいております。
少々気になったので書きこまさせていただきます。

以前私も後期千葉氏について興味あって調べたことがあり、本佐倉城に関しては戦国期城址の中では保存状態もよく残っている城で千葉県内で唯一国の史跡に指定されているそうですね。また周辺地域に関しても当時の名残が見られました。

林田様(先祖調べの足しになったら幸いです)
後期千葉氏直臣層についてですが、千葉氏第14代当主胤直から代々家臣にみられる「海保氏」を例に取りますと、元々清和源氏新田氏流里見氏の末裔で、後に千葉氏に仕え、第17代考胤の代になりますと家老になり、第22代胤富や邦胤の代の頃には「胤」を名のっています。千葉家は名門中の名門であり、管理人様の言うように一族以外「胤」を軽々しく使用できなかったことから、千葉一族と何らかの縁戚関係にあったと考えられます(諸地域で縁組の例がみられるます)。ですから林田氏も何らかの縁戚関係にあり林田胤俊の代から千葉一門衆入りしたと考えられます。系譜に関して言いますと千葉氏に限らず嫡子以外はその後途切れることが多く何とも言えないので、元々千葉一族の庶子から分流し発祥したとも考えられます。

他国林田氏について少々調べさせてもらったのですが、播磨国林田郷があった摂津国は清和源氏の発祥地でもあり、詳しく年代はわかりませんが後に「林田」を称する庶子もいるようです(元寇時九州へ出向?領主を与えられ土着?)。
肥前国林田氏に関しては、南北朝時代に北朝方探題一色氏に攻められた南朝方「林田隠岐守(飯岳城、野田名城々主)」や「林田兵衛(今城々主)」がいたようです。肥前千葉一族(後期原氏が末裔、千葉氏研究より)と何らかの関係があり、下総に流れ近侍したとも考えられるのではないでしょうか?
あと戦国後期から肥前国有馬氏重臣にみられます。
室町中期松平家三代当主信光辺りから後の徳川家に代々幕末まで仕えた林田氏もいるようです。
家紋から見ると東国では奥州葛西氏、千葉氏系。
臨済宗からみると当時臼井城々主の臼井氏が臼井荘内(臼井、羽鳥)に広めたとあります。
南北朝期、熊野権現と旧作倉地域との関係はまだわかりません。
プライバシーなことで申し訳ないのですが県内に林田氏は旧千葉庄馬加周辺、旧臼井庄亀崎にみられるようです。
千葉氏関連文献は県立、市立に置いていない研究資料が他図書館に色々ありますのでよかったら参考にしてみて下さい。

管理人様、及び掲示板閲覧の皆様
本佐倉千葉氏直臣層に詳しい方がおりましたら教え下さい。特に千葉介孝胤三男の古屋城々主、物井氏に興味があります。
管理人様、この場をお借りして申し訳ありません。



Re: 千葉氏家臣・林田氏について 林田 - 2008/07/13(Sun) 20:59:40 No.243  

千葉愛好家様

わざわざ御丁寧に色々と有難う御座いました。
さすがにここまで林田苗が居たとは知りませんでした。
ビックリです。
どう繋がりがあるかわかりませんが、教えて頂いたことを元に地道に調べて行きたいと思います。

古屋城はネットで見て知っていました。
地元の南方近くにあります。
それ以上は詳しく知らないのですが、名前までいえませんがその辺一帯に何万坪も持っている大地主さんがいるのは知っています。物井氏の末裔の方なんですかねぇ。
古屋城となりにはまだ妙見様があるそうです。
これほど教えて頂いたのにこの程度の情報で申し訳ありません。





Re: 千葉氏家臣・林田氏について 林田 - 2008/07/21(Mon) 13:09:39 No.246  


あれから区内(大字)の小字を調べたら、

殿台・とんでえ
鍛冶内・かじじ
馬場台・ばっぱだい
検行・けんぎょう
礼明・れいみょう
妙見・みょうけん

など、近隣の旧城郭と関わりがありそうな小字を見つけることができました。



Re: 千葉氏家臣・林田氏について 林田 - 2008/07/31(Thu) 01:16:03 No.251  

千葉氏愛好家様

あれから「尊卑分脈」という本で確かに林田氏を見つけることができました。

清和天皇=貞純親王=源経基(清和源氏祖)=源満季(経基三男)⇒
=源致公(下総守・醍醐源氏より養子入・満季流継承)=省略⇒
=林田泰範(肥後守・大炊助・従五位下)=林田宗泰(掃部助)=林田泰國

源満季より11世後に起こっているそうなので平安後期から鎌倉初期あたりでしょうか。

松平・徳川に代々仕えた林田氏はその末裔だそうです。



Re: 千葉氏家臣・林田氏について 千葉氏愛好家 - 2008/08/08(Fri) 21:06:51 No.254  

林田様

私が拝見したのも尊卑分脈です。
清和源氏満季流(五代目三男高屋氏以降の庶子は宇多・近江源氏系、阿部氏族系とも言われる「佐々木氏」の流れという説もあり)に関しては
その後土着系武士団として発展していったようです。

九州・肥前国に見られる林田隠岐守は「隠岐守」という南北朝時代の官途からして 、
朝廷や幕府などの中央に近い人物が受領・派遣されたと考えられ、
「源満季〜林田泰範・肥後守〜林田隠岐守」の系譜が推測されるのではないでしょうか。
筑後国、讃岐国各林田郷・庄から林田氏が発祥(妙氏辞典より)、後に国人として見られますが「ハシダ」と読み、中央との関係資料が見られないことから上記系譜が濃く推測されます。

私個人的には下総林田氏は馬加康胤以降の千葉主家ではなく「下総原氏」の重臣・一門衆だったのではないかと思います。

下総原氏の出自に関しては色々な諸説、系図に混乱が見られますが、
私個人的には「肥前千葉氏」の流れを組んでいるのではないかと思います。
《下総原氏祖・高胤が領したと思われる下総国千田庄・八幡庄・臼井庄は肥前千葉氏(兄・宗胤系)の所領であった。正統な宗家筋であるという自負から後に千葉主家(弟・胤宗系)を退け、強大な勢力を築き上げる理由にいたったのではないかと》

下総原氏、林田氏を勢力別に見ると

@原胤貞・胤栄(下総原氏宗家・臼井城主・小弓城・臼井衆
 足利義明、安房武田、里見氏による小弓城合戦時の原胤隆の末裔)
 ⇒小弓城合戦時に林田小太郎(元服前?)
 (軍記中の林田氏に関してはここまで大々的に登場するので軍記とはいえど存在はしたと思います。木内氏は原一族の完全な誤りだと思います。皮肉にもこの合戦が
  甲斐源氏武田家の勇・原虎胤を生む原因になりますが・・・)
         
A原親幹・邦房(胤富後の森山城主・千葉家重臣・東総領主・森山衆)
 ⇒林田清右衛門尉(千葉胤富による森山衆宛黒印状に)
         
B原胤長・邦長(本佐倉城・千葉家重臣・佐倉衆)
 ⇒林田玄蕃亮胤俊(千葉邦胤、原氏関連の伊勢御師龍大夫文書に3通)

の原氏ラインにみられるので原家重臣、一門が考えられるのではないでしょうか。




Re: 千葉氏家臣・林田氏について 林田 - 2008/08/21(Thu) 23:43:32 No.260  

千葉愛好家様
たびたび有難う御座います。

また色々と調べていたら「舊佐倉藩士族印鑑短冊」という
明治初期に作成された江戸後期佐倉藩士族名簿に

@林田定治郎=扇之助=堅輔

A林田総之助=源助=愛明(石出家より養子入)

を見つけることができました。

第28代当主・良胤流「千葉光胤殿」も見られました。

旧千葉家の名残がみられる名簿でした。





Re: 千葉氏家臣・林田氏について 千葉氏愛好家 - 2008/09/17(Wed) 20:55:41 No.273  

林田様

佐倉藩の藩士だったということは旧千葉家家臣の名残りなのかもしれませんね。



林田胤俊についてですが、

龍大夫文書中、計三通の中に自筆と思われる自願文が一通あり、
「天正大神宮」「天正大神さま」と記述があります。

一見単なる「天照」の誤記と解釈して終わると思いますが、このことから当時少なくとも佐倉で布教した伊勢龍大夫御師、佐倉千葉氏、家臣団の間では

古事記系読字「アマテラスオオミカミ」と読むのではなく、

日本書記系読字「テンショウダイジン」と読んでいたのがわかります。

これは歴史的大発見だと思います。

このことから
中世期は日本民族・古神道の魂「伊勢神宮」内でも「テンショウ」読んでいたとは言い過ぎでしょうか・・・


萩原氏の「古文書研究」などに見られる批評もありますが、
個人的に戦国期の武家官名とはいえ、
「玄蕃亮(古く律令制においては仏事法会監督、使節の接待と送迎)」
を称してる胤俊が自筆した

「天正大神宮」「天正大神」

は時代が天正期であることから彼なりの天正期に君臨している
「皇祖天照大神」を始めとする祭神、朝廷への純粋な信仰・忠誠・南朝に属した先祖をもつ王政復古への祈願の現れだったのかもしれません。

又は記せられぬ理由があったのか・・・

無名な武将(失礼)ですが大変興味深い氏族・武将だと思います。


ところで林田英樹元東宮大夫(現東京美術館館長)はご出身が鳥取で摂津に近いことから清和源氏満季流林田氏の末裔なのでしょうか・・・







福島目々沢村と相馬氏 投稿者: 投稿日:2008/08/31(Sun) 00:36:28 No.269  
初めまして。
こちらのサイトを始めてGoogle別件で目にしてショックでした。
目々沢氏と伊達藩の関係を調べていまして偶然に見つけてしまいました。

生まれは青森市内でしたが目々沢氏は県内でも1件のみで、
その後千葉市花園町、福島県相馬市、そして現在は栃木県宇都宮市に在住しております。

自分の足跡と千葉氏、相馬氏、伊達藩の絡みがリンクしている様で2年ほど前から目々沢村を福島に見つけ訪れましたが参考になる資料は見つかりませんでした。

千葉氏ー相馬氏ー藤原氏(目々沢発祥)ー目々沢村の城で騒動ー伊達藩に逃げ込むー宮城県北部の城守役ー1名戦士ー残り1名が現在の目々沢の流れで、後、福島県飯坂温泉を目々沢氏が開発まで大まかな時代の流れに浮き沈みする目々沢氏があります。

目々沢氏には2種類あり、千葉氏ー相馬氏ー目々沢氏と山形・藤原氏ー目々沢氏(伊達藩に逃げ込んだ目々沢氏)があるようですが、もう一度、各年代の裏ズケをとりたいと思っております。

どうか「目々沢氏と伊達藩」との係わりの資料や文書、時代事実などございましたら、資料等ご指導頂ければ幸いです。
(家紋は「丸の内に三つ引両」の様です)

宜しくお願い致します。



Re: 福島目々沢村と相馬氏 管理人PC - 2008/08/31(Sun) 20:10:14 No.271  

目々澤様、こんにちは

 目々沢氏と仙台藩との関わりについては、木幡家の系譜や、『仙台藩家臣録』ご覧いただくとよいかもしれません。

 木幡家の系譜は、相馬市教育委員会市史編さん室が発行している『衆臣家譜 巻二 木幡・須江・青田・佐伯』という冊子に記載されています。教育委員会で注文・購入できます。
http://www.city.soma.fukushima.jp/digital/publication/index.html

 系譜によれば、相馬高胤、盛胤に仕えた目々沢隆清(1447-1501)の子に「米々澤左衛門朝清」がおり、永正17(1520)年に伊達左京大夫稙宗に仕えて出羽国米沢に移ったとあります。なぜ伊達家へ仕えたかは詳細不明です。その子・目々澤左衛門清長以降、代々伊達家へ仕えたとあります。

 その目々澤清長を頼ったのが、のちに伊達家の重臣となった目々澤丹後重清です。子孫は奥山を名乗って仙台藩の重職として続きます。

 もう一流、米々澤左衛門朝清の大叔父・目々澤出羽胤定の孫・目々澤弥九郎重之も伊達家に仕えていますが、子孫は奥山家の家臣となったとされます。

 木幡家の家紋は庶家も含めると、藤丸、下がり藤、輪の内に柊、上がり藤、鳥居、蔓藤、藤花三左丸、七曜、左藤巴、内刳円相(?)とありました。



Re: 福島目々沢村と相馬氏  - 2008/08/31(Sun) 21:16:41 No.272  

管理人様、 
お礼の言葉も御座いません。
目から鱗です。

早々に資料を取り寄せもう1度初心で見直したいと思います。
珍しい目々沢氏ですのでやりがいが御座います。

また何か資料等でお心当たりが御座いましたら、是非ともお知らせ頂ければ幸いです。

心から有難う御座いました。



門間の家系につきまして。 投稿者: 投稿日:2008/08/27(Wed) 05:15:22 No.264  
はじめまして、
当方、自分なりに先祖の事を調べて降りましたが、行き詰ってしまいました。
わかる範囲、また仮説でも構いませんので、お力を御借り出来ればと思いまして。。。

@我が家は、仙台在住で伊達家の下っ端の家臣でした。 戸籍、墓石などで、〜天明4年(〜1784)まで、さかのぼることは出来ました。
当家は、門間(もんま)を名乗っております。
まず、ここで行き詰りです。これ以上さかのぼる事は不可能でしょうか?

A仙台藩士辞典などにも他人かも知れませんが、門間、門馬の欄(同じ記載で)にも苗字が出ております。
また、http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/oshu4.htm の千葉善七家に養子か婿かも知れませんが、(門間重定二男)で名前が出てきます。
また、http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/ichizoku91.htm に門馬の欄に、
相馬胤村の五男・胤家(五郎)が相馬郡文間村(茨城県北相馬郡利根町小文間)に住んで文間を称した
とされ・・・
胤景の孫・家経(美濃)は、天正11(1583)年8月15日、相馬義胤(長門守)から名字に
「相馬」の「馬」字を使用することを認めた。これにともない、胤景は名字を「文間」を「門馬」と
改め・・・
と在りますが、
当家、伊達家の門間と相馬家の門馬、また同じ伊達家でも門間、門馬とが存在します、ただし
相馬家では門間は、居ないようです。
このあたりの関係がなぞです。

C門間→門馬→文間→相馬→千葉→平?
かなりの飛躍(笑)でしょうか?

以上になりますが、お分かりの範囲で結構ですので手掛かりなどお教え下さい。
その他、門間家に関しての情報等ございましたら宜しくお願いします。



Re: 門間の家系につきまして。 管理人PC - 2008/08/29(Fri) 12:57:09 No.266  

門間様

まだ仙台門間氏について詳しく調べておりませんが、相馬家臣の門馬氏についての資料をご紹介します。

相馬市教育委員会市史編さん室が発行している『衆臣家譜 巻一 門馬』という書籍があります。
http://www.city.soma.fukushima.jp/digital/publication/index.html
中村藩相馬家に仕えた門馬氏を網羅しています(菩提寺や家紋も藩政時代の編さん当時そのままの形で掲載されています)。

私が確認したところでは仙台藩との関係は見出せませんでしたが、門間様がご覧になったら、なにかお気づきの点があるかもしれません。



Re: 門間の家系につきまして。  - 2008/08/30(Sat) 18:10:17 No.268  

管理人様へ、

ご回答感謝致します。
ありがとうございました。



ウチの家系図 投稿者:千葉県千葉市の千葉 投稿日:2008/08/25(Mon) 16:35:57 No.262  
こんにちは。
千葉県千葉市緑区に実家のある千葉です。
その実家に、平良将から始まるウチの家系図写しのコピーがあります。檀家寺にあったものの、明治時代の写しです。
長さでいうと3メートル位でしょうか・・・。
どれ位の信憑性があるものでしょうか?



Re: ウチの家系図 管理人PC - 2008/08/26(Tue) 13:01:42 No.263  

千葉様、こんにちは!

お持ちの系譜を実見しておりませんため信憑性の判断はできませんが、平良将から始まるという千葉氏の系譜は珍しいと思います。

平良将は平将門の父・平良持または水守の平良正と同一人物と思われますが、千葉介常胤の次男・師常からはじまる相馬氏は、将門の系を引いているという伝承と系譜があります。



Re: ウチの家系図 千葉県千葉市の千葉 - 2008/08/27(Wed) 15:28:44 No.265  

平良将→御厨三郎→千葉常胤・・・と後は○胤のオンパレードでした。誰の何男だとかどんな人物だったとかの記載もありました。是非実際と照らし合わせてみたいものです。


Re: ウチの家系図 管理人PC - 2008/08/29(Fri) 13:24:58 No.267  

 平良将は平良持のことで、御厨三郎は良持の子・平将頼のことと思われます。ただ、将頼の子は伝わっていないことや、将頼は天慶3(940)年に討たれた人物で、常胤の壮年期(1140ごろ)とは二百年の開きがありますので、初期段階の系譜には疑問があります。

 千葉氏の系譜は、千葉県立中央図書館に『房総叢書』などに掲載されていますので、確認されてみるとよいかもしれません。



秋の研修会 投稿者:母体の千葉 投稿日:2008/08/11(Mon) 21:06:27 No.256  
お世話になります。
秋の研修会の告知をさせていただきます。

日時 9月7日 8時〜17時
場所 宮城県 登米市 佐沼 迫町
会費 3000円(バス代、昼食、見学料含む)

前沢ツルハ前8:20⇒長島ニ反田農協8:30⇒川崎道の駅9:00⇒登米明治村10:00



Re: 秋の研修会  - 2008/08/21(Thu) 01:44:39 No.259  

カリフォルニア在住のリース千葉早智子と申します。ルーツ探しを始めたばかりですが、父方先祖は築館、花山、柳の目へりの出身と聞いております。築館、仙台に親類がおります。時々帰国したときに訪問しています。今回は行かれませんが、研修会の主旨について詳細を伺えれば幸いです。


飛び名主 投稿者: 投稿日:2008/08/15(Fri) 18:29:28 No.258  
美濃遠藤の子孫ということになっていますが、知っている方が居たら教えてください。
「飛び名主」となどのような役目だったのでしょうか
先祖が飛び名主として 元禄五年七瀬川の飯名河岸誕生と同時に 土着したとありますが。遠藤家が那珂郡等から領地が近江に変わると 河岸から屋敷を変えています。



現代語訳 吾妻鏡 投稿者:武蔵国の野手 投稿日:2008/07/29(Tue) 08:25:30 No.247  
お久しぶりです。武蔵国の野手です。

最近、吉川弘文館から発刊されている『現代語訳 吾妻鏡』にハマってます。
3巻までしかまだ出てませんけど、注釈も充実してて、
今までのものよりかなり読みやすいです。
(全16巻らしいのですが、そろそろ4巻目がでるのかな?)
少しでもご先祖さんにゆかりのある人物が登場すると一喜一憂状態です。

単純ですが、千葉氏一族ならではの楽しみです



Re: 現代語訳 吾妻鏡 富山県民 - 2008/07/30(Wed) 20:38:46 No.249  

自分のご先祖が文章に出てくるとやっぱりうれしいですよね。
自分の場合は不明よな内容でしたが…(詳細は緑色の字で下のあたりに書いてあります)。



Re: 現代語訳 吾妻鏡 富山県民 - 2008/07/30(Wed) 20:50:47 No.250  

さっきの投稿で変換間違いをしてしまいました。
「不明よ」じゃなくて「不名誉」です。

うちのご先祖らしきひとは他人の所領を侵して幕府から罰せられたというようなことが吾妻鏡に書いてありました。



Re: 現代語訳 吾妻鏡 武蔵国の野手 - 2008/08/02(Sat) 07:21:03 No.252  

そうですか。
私のほうは胤光の子の野手八郎から始まる系の椎名系野手らしいのです。
富山県民さんと近いのだったらおもしろいですね。
富山にも同じ姓は関東圏につぐ多さです。

不名誉でも何でも、何代も経て現在の自分につながっていると思うと、
感慨深いものがありますね。

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