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●畠山・小山田氏略系図 足立遠元―――娘 秩父出羽権守重綱の長男。義母は兒玉別当大夫行経娘。妻は武蔵七党の横山大夫孝兼娘。通称は太郎大夫。梶原平三景時は甥にあたる。
武蔵国大里郡畠山庄(埼玉県深谷市畠山)の荘官となり、畠山氏の祖となった。彼は秩父氏の長男であったにも関わらず秩父氏の家督は弟・秩父重隆に継承された。このためか、彼の子・重能は後年、鎌倉悪源太源義平の軍勢に加わって、重隆を追討している。 重弘の主だった活躍は伝わっていないが、下総権介であった千葉介常胤に次女(中娘)を嫁がせている。常胤の次男・相馬次郎師常が生まれたのが保延5(1139)年であることから(『吾妻鏡』)、保延年中のことだろうか。常胤と重弘娘との間には、鎌倉時代に大いに活躍をした千葉太郎胤正・相馬次郎師常・武石三郎胤盛・大須賀四郎胤信・国分五郎胤通・東六郎大夫胤頼が生まれている。 秩父行重 武蔵七党・兒玉党の兒玉別当大夫行経の子。通称は平太。姉妹が秩父権守重綱の妻となっていた関係から、弟・平四郎行高とともに重綱の養子となり、秩父氏を称した。秩父太郎太夫重弘の義弟にあたる。 時代的に見て行重の姉妹は重綱の後妻で、重弘の生母ではないと思われる。この兒玉行経娘は「号乳母御所、悪源太殿称御母人」とあり(『兒玉党系譜』、『小代宗妙置文』)、秩父氏と六条源氏との間には親密な関係があった様子がうかがえる。 兒玉行経―+―兒玉保義
秩父太郎太夫重弘の嫡男。通称は畠山庄司。母は横山大夫孝兼娘。梶原平三景時とは従兄弟同士、和田小太郎義盛は義理の従弟になる。 横山孝兼―+―横山時重――+―横山時広
武蔵国男衾郡畠山庄(埼玉県深谷市畠山)の庄司で、秩父氏の長男の系統でありながら家督を継げなかったため、叔父で惣領となっていた秩父次郎大夫重隆に敵意を抱いていたようだ。
重能も義平の軍勢に加わって大蔵館に攻め入り、義賢・重隆を討ち果たした。このとき重能は、曽祖父の秩父十郎武綱が後三年の役の際に八幡太郎義家より給わった白旗を指物にしていたという(『源平盛衰記』)。館には義賢の次男で二歳の駒王丸が住んでいて、館を逃れていた。義平は上京することになったため、重能に、 「駒王をも尋ね出だして必ず害すべし、生き残りては後悪べし」 と、駒王丸の殺害を厳命した。重能はたしかに承ったと答えたが、さすがに二歳の和子を手にかけることは不憫でならず、斎藤別当実盛が武蔵国へ戻ったことを聞いた重能は、匿っていた駒王丸とその母を実盛に預けた。実盛はこのまま関東においておくことは危険だと、信濃国木曾の中原三郎権守兼遠へ預けることとした。この木曾で育った駒王丸が、のちに木曾冠者源義仲に成長する(『源平盛衰記』)。 この大蔵合戦のときの武蔵守は後年、義平の父・源義朝と結んで平治の乱を起こした藤原信頼が務めている。義朝と信頼がこのころ関係を持っていたかは不明だが、受領国において大規模な合戦が起これば信頼にとってもプラスになることではないと思われ、合戦自体に信頼の関与はなかったろう。
重能は敵対していた叔父・重隆を討ち果たすことには成功したものの、武蔵国留守所惣検校職に就くことはなかったようだ。在庁の任命権者である国司・藤原信頼が任命しなかったためだと思われるが、重隆の子・秩父能隆にも留守所惣検校職は任命されておらず、合戦を遂げた秩父氏に対する懲罰的な意味があったのかもしれない。しかし、この合戦によって畠山重能の勢力は秩父党の惣領的な地位を取り戻すことに成功している。重能は男衾郡畠山から大蔵郷と都幾川を挟んだ対岸の高台、菅谷村(比企郡嵐山町大字菅谷)に進出しており、重隆の遺領も自領として取り込んだようであるが、菅谷館は重隆の館を取り立てたものではないだろうか。重隆の子・能隆は大蔵郷の南、入間郡葛貫郷(入間郡毛呂山町葛貫)へ移って葛貫牧の別当になったか「葛貫別当」を称し、その子・河越太郎重隆は入間郡河越庄(川越市)へ移っている。 平治元(1159)年12月、「平治の乱」で藤原信頼・源義朝が敗れて討たれると、永暦元(1160)年には、平清盛の子・平知盛が武蔵国の知行国守になった。すると、重能と小山田別当有重の兄弟は積極的に平知盛に仕えたようで、天台座主・慈円大僧正(九条兼実の弟)が記した『愚管抄』には、 「平家世ヲ知リテ久シクナリケレバ、東国ニモ郎等多カリケル中ニ、畠山荘司、小山田別当ト云フ者、兄弟ニテアリケリ」 と記されている。 畠山荘司重能・小山田別当有重の兄弟は、武蔵国留守所検校職に任じられていた河越太郎重頼とは別に、平家の力を背景として独自の勢力を築いていったと推測される。また、同族の江戸太郎重長も、平家の郎党として武蔵国南部に勢力を広げており、頼朝の挙兵時には、平家党に属して河越重頼や畠山重忠とともに三浦氏を攻め滅ぼしている。『吾妻鏡』の治承4(1180)年9月28日の項に、 「御使を遣はして、江戸太郎重長を召さる。景親が催しによつて、石橋合戦を遂ぐること、その謂れありといへども、令旨を守りて相従ひたてまつるべし。重能・有重は折節在京す。武蔵国においては、当時汝すでに棟梁たり。専らたのみ思しめさるるの上は、便宜の勇士等を催し具して、余参すべきの由と云々」 とある。重能がいないから重長が棟梁である、つまり、頼朝は重能・有重が武蔵国の棟梁であったと考えていたことがわかる。また、このような記述から、秩父党は実質的に、秩父党の嫡家・畠山氏、惣領家・河越氏、四男流・江戸氏に大きく三つに分裂して、それぞれが勢力を蓄えていたと推測することもできる。 治承4(1180)年7月、重能は大番役のために弟・有重とともに上洛したが、京都についた直後、伊豆で源頼朝が挙兵した。さらに信州木曽で挙兵した木曽義仲も北陸に攻め入って越後の国府を占領し、加賀にまで攻めてきたため、寿永2(1183)年、在京中であった重能・有重兄弟、宇都宮朝綱ら東国の武士は、内大臣平宗盛の命に従って越中へ向けて進軍した。 「木曽殿の方より、今井四郎兼平、先づ五百余騎にて馳せ向かう。平家の方には畠山庄司重能、小山田別当有重、宇都宮左衛門朝綱、これらは大番役にて折節在京したりけるを、大臣殿『汝等は故い者なり。軍の様をも掟てよ』とて、今度北陸へ向けられたり。彼等兄弟三百余騎で打向ふ」(『平家物語』) 6月1日、平家勢と木曾勢が加賀国安宅川を挟んで対峙した。平家勢は橋を引いていたため、木曾勢は川を渡る必要に迫られたが、増水している安宅川は濁って浅瀬を見つけることができずにいた。このとき、加賀国の住人である林六郎光明が召し出され渡河を命じられた。林は見目良き馬十頭に手綱をつけて瀬踏みのために放し、馬は見事に浅瀬を見つけ、木曾勢はそのあとを追って浅瀬を渡った。 瀬踏みの馬は平家の陣に駆け込んだため、平家勢は「源氏の落つるやらん、鞍置馬共迷ひ来たれり、我取りて乗らむ」と平家の侍たちは、木曾勢が退却して、その乗り捨てられた馬が逃げ惑ってきたものと勘違いして、馬を捕えるために嬉々として追い回した。しかし、平家陣にいた畠山庄司重能、小山田別当有重はさすが東国で鍛えられた武士であった。 「これは落人の馬にはあらず、川の瀬踏の馬なるべし、敵はすでに近づきたるにこそ、重能、有重見て参らん」と、重能・有重兄弟は手勢三百余騎を率いて、安宅川まで物見に出かけた。すると、彼らの予想通り安宅川南岸にはすでに木曾勢が勢揃いしており、重能は陣に使者を立てて、木曾勢がすでに川を渡っていることを報告。重能が先陣をきって木曾勢の大軍に突撃した。 これを見た木曾義仲は、樋口兼光を呼ぶと、 「ここに赤旗三流四流指し上げたるは誰なるらん」 と問うと、兼光は、 「武蔵の畠山と覚候」 と答えた。義仲はなぜ彼を知っているのか問うと、兼光は、 「武蔵へ時々越し候し間、畠山の旗をば見知りて候」 と答えた。樋口次郎兼光は武蔵国に時々赴いていたことがうかがえる。河越氏が信濃国の井上小太郎と馬を通じて知り合いだったことなど、信濃国と武蔵国は馬という共通点で結ばれている。兼光は馬を通じて何度となく武蔵国へ来ていたのかも知れない。義仲は、 「東国には畠山こそ棟人の者よ、高見王より八代の後胤、村岡五郎重門より四代孫、よき敵ぞ、これは馳せ合いの軍なづべし、敵も御方も一手ゝゝ押し寄せゝゝゝゝ戦うべし」 と、樋口兼光に先陣を命じて畠山勢に当たらせた。木曾義仲にとってみれば、父・帯刀先生義賢を武蔵国大蔵館で討った仇の一人であが、同時に自分の命を救ってくれた恩人でもある。ただ、義賢が討たれたとき義仲はまだ乳児であり、重能の事を見知っていたとは思われないが、父・義賢が重能の叔父・重隆の聟であった関係で、秩父党の勢力の大きさは知っていたのだろう。「東国には畠山こそ棟人の者」と評している。 畠山重能は三百騎を鶴翼にひろげ、樋口兼光の百五十騎を包み込む形を取った。樋口兼光はこれに対して魚鱗の形をとって馬の鼻を立て並べて、互いに戦いを繰り広げたが、重能の手勢は次第に押されて二百騎が討たれた。一方、樋口勢は百騎が討たれて五十騎ばかりになり、互いに退いた。 続いて、畠山重能の急使を聞いて駆けつけた上総介藤原忠清と木曾勢の今井四郎兼平が合戦、続けて平家勢の飛騨守藤原景家、越中前司平盛俊、越中次郎兵衛尉平盛嗣、上総五郎兵衛尉藤原忠光、飛騨太郎左衛門尉景高らが、木曾勢の楯六郎親忠、落合五郎兼行、水巻、石黒、林、富樫、佐見、根井小弥太行親と合戦し、さらに権亮三位中将平維盛の本隊と木曾義仲の軍勢がぶつかり合い、ついに平家勢は敗れて壊走していった。 京都に戻った重能・有重は、そのまま京都に戻ったが、東国にあった息子の畠山庄司次郎重忠ほか、江戸太郎重長、河越太郎重頼、葛西三郎清重、渋谷庄司重国ら秩父党の主だった人々は、伊豆に挙兵して勢力を広げつつあった前右兵衛佐源頼朝に加担して平家と完全に敵対していた。 そして平家一門の都落ちの際、秩父一党が頼朝に荷担したことを知った宗盛は激怒し、重能・有重兄弟を斬首しようとするが、彼らの主である宗盛の弟・新中納言平知盛が、 「彼等百人千人が頚を斬らせ給ひて候とも、御運尽きさせ給ひなば、御世を保たせ給はん事有り難し。故郷に候妻子所従等、如何ばかり歎き悲しみ候らん。ただ理をまげて下させ給へ。もし運命開けて、都へ帰り上らせ給ふ事も候はば、有り難き御情けこそ候はんずれ」 と宗盛を諌めたため、宗盛もようやく許した。これを聞いていた重能・有重、宇都宮朝綱ら東国の豪族出身の武士は、この知盛の恩義に手を合わせて感謝し、 「何処までも御供仕り候はん」
と訴えた。しかし知盛は、 「汝等が魂はみな東国にこそあるべきに、ぬけがらばかり西国へ召し具すべき様なし。ただ疾く下れ」 と諭されたため、弟・有重とともに武蔵国へ戻っていった。その後の重能の動向は不明である。重能が鎌倉勢の中に加わって平家と合戦したという記述は伝わっておらず、そのまま隠居した可能性が高いだろう。畠山氏は重能の子・次郎重忠が頼朝に大変気に入られ、その清廉潔白な姿は、鎌倉武士の鑑と称されるほどだった。 重能の墓と伝わる卵石が、畠山氏の居館跡に遺されている。「重忠墓の南東、椎ノ木下にある自然石」がそれであるという。椎の木の根元にひっそりと隠れるように収まっている姿は、平家が滅び鎌倉時代になって、世の中から忘れ去られた重能の姿そのものであるかのようである。 〔千葉氏の一族〕〔千葉氏の掲示板〕〔秩父氏のトップ〕〔平良文の子孫〕 Copyright(C)1997-2007 S-Shibata. All rights reserved.
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