| 寺名 | 所在 | |
| 瑞鹿山円覚興聖禅寺 | 鎌倉市山ノ内 |
●円覚寺
住所:山ノ内428〜458
説明:
臨済宗円覚寺派大本山。正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺。本尊は釈迦如来坐像。開基は北条時宗。開山は無学祖元(仏光禅師)。弘安5(1282)年12月8日に落慶法要が行われた。鎌倉五山の第二位。正安3(1301)年8月7日に完成した大鐘は現在国宝に指定されている。代々中国からの招聘僧が住持となっていることが多い、鎌倉でもめずらしい寺院。
北条時宗は、信頼する蘭渓道隆(建長寺の開山)が時頼の死後に不遇であったことを感じ、また、元寇の戦没者供養もかねて新たな寺院の造営を考え、円覚寺の計画を立てていた。弘安元(1278)年3月、時宗と道隆は新たな寺の候補地を探すために外出。そこで鶴岡八幡宮から白鷺が飛び立つのを見た二人は、八幡大菩薩の化身であると感じて白鷺のあとを追っていくと、八幡宮の西方にある池に舞い降りていた。道隆も何かを感じて、この地を掘ると「円覚経」を納めた石櫃が発見され、寺はこの地に建立されることが決定、開山として道隆が予定されていたが、道隆はこの直後に急死してしまい、同時に建長寺住持も空席となり、円覚寺建立の話も一時途絶えてしまう。時宗はこの事態を重く見て、道隆の弟子2人を中国に派遣して名僧を探し出させ、この二人は南宋天童山住持・環渓唯一を招こうと考えたが、彼はすでに80歳を越えており、その弟弟子で天童山首座をつとめていた無学祖元がかわりに来日することとなった。
無学祖元はかつて元兵に刀を突きつけられたときも動じなかったという肝の座った人物で、時宗は彼を鎌倉に招くとただちに建長寺住持とし、自らはその弟子となった。しかし、ふたたび元寇が起こり、祖元が帰国の申し出をしたため、あわてた時宗は円覚寺建立の話を申し出て、祖元をその開山としたい旨を説いたため、祖元もついに帰国を断念、時宗はただちに円覚寺建立を開始し、1年の工事期間をおいて弘安5(1282)年12月8日、祖元を開山としてついに落慶法要が執り行われた。このとき、円覚寺の裏山から白鹿が数頭あらわれて式典の中で祖元の説法を聞いていたため、これは吉瑞だとして山号が「瑞鹿山」と決定された。現在の円覚寺唐門のちかくにある「白鹿洞」から鹿が現れたとされている。
以降は将軍家御祈祷所という格式も加わったが、円覚寺開山の2年後、弘安7(1284)年4月4日、時宗がわずか34歳の若さで急死してしまうと、幕府は直ちに時宗の墓所を円覚寺内に造営しており、現在「仏日庵」となっている。祖元もその2年後、弘安9(1286)年9月3日に建長寺で没し、建長寺昭堂の脇に葬られて「正続庵(のち正続院に改名)」が建立されているが、南北朝時代初期の建武2(1335)年、円覚寺仏日庵の隣に移築された。そして北条時宗以降、北条氏の墓所としての機能をもっていたと考えられる。
しかし、室町時代にはいると、建長寺と円覚寺の間に法論をめぐる対立が起こり、これがしだいにエスカレートし、応安7(1374)年11月23日には建長寺の僧侶が大挙して円覚寺に襲いかかり、火を放ったため伽藍すべてが灰燼に帰した。円覚寺は全体を土塀に覆われていて、その入り口は横須賀線の線路を挟んで白鷺池を越えたところにある北門跡・南門跡で、現在の北鎌倉駅も寺域内に含まれている。
●円覚寺唐門・舎利殿
住所:円覚寺内
説明:
かつての舎利殿は、源実朝が宋の能仁寺から仏牙舎利(釈迦の歯)を譲り受け、大慈寺に納めていたものを、延慶2(1309)年に執権・北条貞時が円覚寺に移して祥勝院(舎利殿)を建立したのが始まり。以降250年間、舎利殿としてあったが、永禄6(1563)年12月23日に円覚寺大火で消失、天正元(1573)年に鎌倉尼五山第一の太平寺の客殿を移築され現在にいたっている。中世の禅宗様を伝える貴重な建築物で、現在国宝に指定。唐門の左側には妙香池が広がり、亀が日向ぼっこをしている。
●円覚寺仏日庵・黄梅院
住所:円覚寺内
説明:
北条時宗の廟所。また、内部では時宗・貞時・高時の得宗家3代がともに祀られている。北条時宗の嫡子・北条貞時の墓所は円覚寺のもっとも奥の黄梅院にあり、無畏殿とよばれている。また、新田義貞の軍勢に攻められて東勝寺で自刃した最後の得宗・北条高時は、黄梅院と正続院(無学祖元の廟所)に隣接した続灯院に葬られ、同光殿と呼ばれている。
仏日庵を少し登った黄梅院は足利尊氏の師僧・夢窓疎石を祀った塔頭で、開基は夢窓疎石の弟子・饗庭氏直(尊氏側近)で、聖観世音堂には足利家の家紋・二引両紋の幔幕が掲げられている。
●明月院
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住所:山ノ内189
説明:
臨済宗寺院で、もともとは平治の乱で討死した剛将・山内俊通(首藤刑部大輔)の菩提を弔うため、その嫡子・山内経俊(頼朝の乳母子)が創建した「明月庵」を始まりとする。経俊はのち平家に属し、石橋山の戦いでは頼朝の鎧に矢をつきたてた人物。その後、北条氏の別宅となったようで、5代執権・北条時頼が受け継ぎ、のち出家を契機に北西の隣りに最明寺を建立した。現在、四季の花が植えられ、とくにアジサイが有名で、俗にアジサイ寺と呼ばれている。
建長8(1256)年7月17日、将軍・惟康親王が「山内の最明寺に御参」し、そののち「相州の御亭に入御」とあり、最明寺のすぐ近くに時頼の別宅があったと考えられる。弘長3(1263)年11月13日、最明寺入道時頼は急病に罹り、もはやこれまでと悟り、は11月19日に最明寺北亭にこもって死ぬことを決め、翌20日に北亭へ移り、23日に座禅の姿で寂。同寺はかつては円覚寺に隣接する広大な寺域があったと思われるが、時頼の死後、嫡子・時宗が幼少であったことから、有力一門が執権職を継ぎ、最明寺は顧みられずすぐに廃寺となってしまった。翌年末にはすでに「最明寺旧跡」とされている。
執権職に就いた嫡子・北条時宗はこの廃寺跡に文永5(1268)年に蘭渓道隆を開山として禅興寺(福源山禅興久昌禅寺)を建立。広大な寺域を誇っていた。室町時代も鎌倉時代と同様に尊重され、足利義満からは関東十刹の筆頭に据えられた。明月院はその禅興寺の塔頭のひとつで、康暦2(1380)年に足利氏満(関東公方)が関東管領・上杉憲方(安房守)に禅興寺の中興を命じ、密室守厳(蘭渓道隆の5世法孫)を開山として建立されたのが始まり。奥には小ぶりな枯山水を配し、密室守厳を祀った開山堂、その横には「やぐら」があって、中に上杉憲方の墓とされる宝篋印塔がある。
●巨福呂坂
住所:山ノ内
説明:
鎌倉七口の一つ。国指定の史跡で、仁治元(1240)年10月10日、北条泰時が道が険阻であるので通りにくいため、道路工事を行うことを決定し、19日から着工して道が拡張された。現在の道路は最近開削された道路であり、かつての巨福呂坂は鶴岡八幡宮脇から山中を通って建長寺前に出る険阻な道であった。
元弘3(1333)年5月18日、新田義貞の重臣・堀口貞満(三郎)と大嶋守之の両将がここを攻めたが、執権・北条守時の猛反撃のために打ち破られ、新田勢は退却を余儀なくされた。しかし、死を覚悟していた守時はそのまま円覚寺方面までこれを追い討ちしたため、新田勢の本隊と激戦して討死した。
●建長寺
住所:山ノ内64
説明:
●鶴ヶ岡八幡宮
住所:雪ノ下二丁目
説明:
●伝畠山重忠跡
住所:雪ノ下3丁目
説明:
幕府創業の功臣・畠山次郎重忠の館があった場所とされ、鶴ヶ岡八幡宮の南御門正面に位置する。実際はさらに東にあったらしい。
正治元(1199)年、頼朝の長女・大姫が重病に罹った際、頼朝は京都の医師・丹波時長に治療を依頼したが、時長はこれを拒否。後鳥羽上皇は院宣をもって時長を鎌倉へ下した。5月7日、時長は中原親能の亀谷館から重忠の館に移った。
●宝戒寺
住所:雪ノ下3丁目5-22
説明:
●大倉幕府跡
住所:雪ノ下3丁目6-11
説明:
●永福寺跡
住所:二階堂216
説明:
開基は源頼朝。開山・本尊ともに不明。宗派は天台宗寺院か?現在は廃寺。
文治5(1189)年11月18日、奥州平泉を攻め落とした頼朝は鎌倉に凱旋。平泉の中尊寺大長寿院(二階大堂)を見て、12月9日、これを模した二階大堂を鎌倉に建立することを決定した。しかし、奥州の乱などによって着工が延期され、建久2(1191)年2月15日夕刻、頼朝自ら大倉山辺に赴いて適地が選ばれ、造寺奉行に三善善信入道・工藤行政・藤原俊兼ら元京吏が選ばれて着工が開始された。奥州征討に際しての戦死者を祀ることが目的であった。
この永福寺造営の際、頼朝が現場を視察に来た際、左目が盲目の人夫が頼朝の目にとまった。不審に思った頼朝が捕らえさせて懐中を探らせると短刀が発見され、眼は魚の鱗で盲目を装った男だった。実はこの人物、平家の旧臣・藤原忠光(上総介忠清の嫡子)であり、頼朝暗殺を狙っていたのだった。この造営に際しては、人夫だけではなく、北条義時・畠山重忠・工藤行光・城資茂ら有力御家人も実際に立ち働いている。そして11月25日、園城寺の公顕大僧正が招かれて完成祝賀供養が行われた。その後、薬師堂・阿弥陀堂などが建てられ、建久5(1194)年12月26日に薬師堂が建立された時点でだいたいの形が整う。その後、何度となく火災に遭い、応永12(1405)年12月17日午前10時ごろに発生した火災以降はその再建も打ち切られた。
永福寺は鎌倉有数の巨大寺院で、その象徴的な建物・二階大堂にちなんで、この地は二階堂と称された。工藤行政はこの地に館を構えていたため、二階堂を名字として用いることになる。
●白幡神社・法華堂跡
住所:西御門2丁目-1
説明:
●伝頼朝墓所
住所:西御門2丁目
説明:
頼朝の墓所と伝わるが、実際は観音堂跡。大倉幕府の裏山の狭い平地にあり、当時は絶壁の上にあった。治承4(1180)年8月24日に石橋山の岩窟に収めてきた小観音像を、伊豆山権現の専光房良暹に命じて捜索させ、それを自らの持仏堂に安置した。その後、文治5(1189)年7月18日、奥州に出陣する頼朝は、良暹に出陣の20日後に大倉御所の背後に観音堂を草創する事を命じた。そして8月8日、夢のお告げを受けた良暹は、予定より2日早く御堂の根本となる柱を建てた。その後、この観音堂を基礎として広大な法華堂が営まれることになる。
●伝大江広元・毛利季光・島津忠久墓所
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住所:西御門2丁目
説明:
●高時腹切やぐら
住所:小町3丁目-10
説明:
●段葛
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住所:雪ノ下1丁目〜小町1丁目
説明:
●相馬天王社・巽荒神
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住所:扇ガ谷1丁目
説明:
八坂神社。相馬師常が自分の屋敷地内に牛頭天王を勧進して作られた神社で、はじめ隣所の巽荒神にあった。江戸時代に現在地に移築された。祭神は素戔嗚尊・桓武天皇・葛原親王・高望王・相馬師常。
●寿福寺
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住所:扇ガ谷1丁目
説明:
亀谷山寿福金剛禅寺。鎌倉五山の第三座で、臨済宗建長寺派の寺院。開基は北条政子で、開山は千光国師葉上房僧正栄西。本尊は釈迦三尊像。境内全域が史跡で、木像地蔵菩薩・『喫茶養生記(栄西筆)』は国指定重要文化財、栄西像は県指定重要文化財に登録されている。隣地に相馬天王社がある。
平忠常の反乱を鎮圧すべく下された追討使・平直方(北条氏の遠祖)の屋敷跡で、娘婿となった源頼義に譲られた。その後も源氏の鎌倉館(源氏館)として義朝・義平らが住んだが、その滅亡後は廃虚となり、岡崎義実(三浦介義明の弟)が義朝の供養堂を建てた。そして、正治2(1200)年閏2月12日、北条政子はこの地に寺院を建立することを決め、二階堂行光・三善善信入道を派遣。翌日、栄西に寄進されたこの土地は「清浄結界之地」とされた。その後、政子の夢枕に立った源義朝の言葉に従って、政子は沼浜(逗子市沼間)にあった義朝の旧宅を寿福寺内に移築している。寺域墓地には政子・実朝の供養塔がのこる。
●相馬師常墓
住所:扇ガ谷二丁目
説明:
相馬師常の墓所と伝えられる石窟だが、師常が自邸内に勧進した牛頭天王社が室町期にこの窟内にあったことから、師常の墓として伝えられたものといわれる。
●化粧坂
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住所:雪ノ下二丁目
説明:
●高徳寺大仏
住所:雪ノ下二丁目
説明:
●江ノ島
住所:雪ノ下二丁目
説明: