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|平良文の子孫|三浦氏の発祥|三浦氏の庶流|千葉氏の一族|掲示板へ| ●三浦氏の惣領家●
三浦氏五代惣領。三浦介義明の二男。通称は矢部次郎、荒次郎、三浦介。娘は天野政景・安西景益に嫁いでいる。上総権介常澄の加冠によって元服したともされ(『中世東国武士団の研究』野口実氏著)、衣笠城下の矢部村を領して「矢部次郎義澄」を称していた(『系図簒要』)。 平治元(1159)年の平治の乱では源義朝に随って上洛。左衛門佐平重盛(清盛の嫡子)に待賢門を破られた右衛門督藤原信頼の穴埋めをするため、「左馬頭義朝が嫡子、鎌倉悪源太義平」に「鎌田兵衛、後藤兵衛、佐々木源三、波多野次郎、三浦荒次郎、須藤刑部、長井斎藤別当、岡部六弥太、猪俣小平六、熊谷次郎、平山武者所、金子十郎、足立右馬允、上総介八郎、関次郎、片切小八郎大夫」の十七騎が随って駆け向かった。この十七騎は重盛を追い回したため、さすがの重盛も自陣に逃げ帰り、その手勢五百騎も「敵はじ」と思って退却した(『平治物語』)。 その後も源氏勢は 平氏勢と激しく戦ったが、不運にも義朝は敗れ、落ち延びる最中、義澄は斎藤別当実盛、平山武者所季重、上総介八郎広常ら他の郎従とともに近江国堅田のあたりで義朝の命によりばらばらになって帰国した。こののち、平清盛率いる平家一門が絶大な権力を手に入れ、源氏の郎党であった三浦氏の勢力は著しく衰退した。その後、鎌倉党の大庭三郎景親が平家のもと「相模国守護人」として相模に君臨することになる。 ●平治の乱で源義朝に従った諸将
長寛元(1163)年秋、兄の杉本義宗が安房で負った傷がもとで没すると、老齢の父・義明に代わって三浦党の指揮をとっていたと思われる。また、平家政権下での京都に大番役として上洛をしていた。平家の政権下で大番役として上洛していた東国武士は、畠山荘司重能、小山田別当有重、宇都宮左衛門少尉朝綱、豊島右馬允朝経、土肥次郎実平、千葉六郎大夫胤頼、梶原平三景時、武田右兵衛尉有義、新田大炊助義重、八条院蔵人足利義兼など、多数を数えている。 治承4(1180)年5月に起こった以仁王の乱の際、義澄は千葉六郎大夫胤頼(のちの東六郎大夫胤頼)とともに大番役のために上洛していた。本来は帰国できる月であったが、戦乱時の臨時措置として任期を延長され、守備兵として京都に留め置かれた。そして乱の鎮定後、帰国を許された。そして6月24日、義澄は胤頼とともに伊豆国田方郡北條の頼朝の配所を訪れて、頼朝と他人を交えず「御閑談」をしている。おそらく挙兵の打ち合わせをしていたのであろう。
『吾妻鏡』治承四年六月廿七日条
●頼朝の挙兵に応じて出陣した三浦一族(『吾妻鏡』治承四年八月廿二日条)
同年8月17日、頼朝が伊豆国で反平家の兵を挙げると、三浦氏も「兼日」の約束に応じて一党を召集したが、嵐の影響で三浦郡を出たのは22日と、5日遅れの出兵となってしまった。 頼朝は約束の日時に現れない三浦勢と合流するためか、伊豆国を出て、顧蹤する土肥次郎実平の所領・相模国土肥郷に向かったが、23日夕刻、丸子川(酒匂川)の対岸にまで進軍してきた三浦勢を見た大庭景親は、三浦勢と頼朝の合流を恐れ、嵐の中、石橋山に陣を張っていた頼朝に夜襲をかけてこれを壊滅させた。この戦いを石橋山の戦いという。 翌24日、頼朝の敗北を知った義澄はただちに軍勢をまとめて三浦郡へ馳せ戻った。この途路、平家に荷担する秩父党・畠山次郎重忠と義澄の従兄弟にあたる和田小太郎義盛・宗実兄弟の間で合戦が起こった。三浦党は一族の多々良三郎重春が討死を遂げたものの、畠山勢の郎従五十名を討ち取り、敗れた重忠は武蔵へと逃れていった。この戦いでは、上総権介広常の弟・金田権大夫頼次が七十騎を率いて三浦方に加わったという。 『吾妻鏡』治承四年八月廿四日条
小坪の戦いで和田宗実の奇襲(実際は重忠と義盛との間に和議が結ばれていたが、事情を知らない宗実が兄の危機を救うために畠山勢に突撃した)に敗れた畠山重忠は、秩父党惣領である河越重頼や江戸重長に出兵を要請し、これに応じた河越重頼が武蔵七党の金子氏・村山氏などを指揮して、26日三浦郡へ侵攻した。これに三浦一族も居館・衣笠城の各城門を守備して迎えうち、寄手の秩父党も攻めあぐねて、夕刻になると秩父勢は衣笠城の攻城をいったん中止して軍勢を引き上げた。 しかし戦いが終わってみると、三浦勢は連日の戦いで疲れ切り、兵数においても劣勢であった。もはや城はそれほどもたないと判断した義澄は、城を捨てて落ちることを父・義明に勧めた。義明はこれを良としながらも、みずからは落ちることを拒否し、
として、義明は三浦義澄・和田義盛以下、一族に城からの退去を命じた。義澄らは義明の厳命を受けて頼朝の行方を訪ねるために泣く泣く衣笠城を脱出、城の東・栗浜から三浦氏に縁の深かった安房国へ向けて舟を出した。そしてこの翌朝、衣笠城は落城。義明はひとり小雨のなかで江戸重長の郎従によって討ち取られたという。享年は89歳とも(『吾妻鏡』)。大庭景親は衣笠落城の直後、三浦郡に攻め込んできたが、三浦一党はすでに兵舟に乗り込んで海上にあり、舟を持たない景親はやむなく大庭郷へ引き上げていった。 『吾妻鏡』治承四年八月廿七日条
相模灘に逃れた三浦一党だったが、ここで思いがけず北条時政、江馬義時、岡崎義実、近藤国平ら頼朝に扈従していた武士と海上で出会い、彼らとともに安房国に上陸を果たした。一般に、三浦氏の所領のある安房国平北郡猟島(鋸南町龍島)あたりに上陸したと伝えられている。時政らは石橋山の戦いで頼朝とはぐれてしまい、土肥郷岩浦から舟で相模国を脱出して安房国へと向かっていたのだった。 そのころ頼朝は土肥次郎実平らに守られながら箱根山中を脱出。実平が配下に用意させた舟に乗って、28日に真鶴岬から安房へ向けて海上へと逃れた。一方で実平は嫡男・土肥弥太郎遠平を伊豆山に派遣し、かくまわれていた北条政子に頼朝の無事を報告させている。『義経記』によれば頼朝ははじめ三浦へ向かっていたが、折からの台風のうねりのために三浦に上陸できず、そのまま海流に乗って翌29日、北条時政・三浦党が上陸した猟島へと上陸したとされている。時政や義澄らが猟嶋を動かなかったのは、頼朝が伊豆から海路で逃れてくるとすれば、海流に乗ってここにたどり着くことを知っていた海将・三浦氏の智恵だったのかもしれない。
9月1日、頼朝はかねてより約定のあった安房国安西郷の安西三郎景益の館に向かい、さらに上総の豪族・介八郎広常を頼ることを北条時政らに諮って決定。3日には武蔵国の豊島清元・葛西清重、上野国の小山朝政、下総国の下河辺庄司行平に書状で参向を命じたうえで、広常の大柳館(長生郡一宮町)に向けて出立、夕刻にその途路の民家を宿とした。当時の公家の日記に拠れば、この時期の広常は「上総国住人」の「介八郎広常」であり、「上総権介」ではなかったようだ(『山槐記』:中納言中山忠親の日記)。 頼朝の安房上陸を聞いた安房平家党の大領主である長狭六郎常伴は、上総へ向かう頼朝を狙って軍勢を召集していたが、安房国の地理に詳しい義澄は伏兵を置いて常伴勢に奇襲をかけて壊滅させた。かつて常伴に兄・杉本義宗を討たれている義澄は、安房国上陸当初から長狭氏討伐の考えがあったのだろう。常伴のその後の動向もみえないことから、このとき戦死したと考えられる。 『吾妻鏡』治承四年九月三日条
義澄の活躍によって難を逃れた頼朝は、翌日の行軍を中止して民家に留まっていたが、そこに安西景益が一族郎従、安房の在庁官人をそれぞれ三人率いて参向した。景益は、 「左右なく広常が許に入御あるの條、然るべからず。長狭六郎が如きの謀は、なほちまたに満ちんか。先づ御使を遣はして、御迎の為に参上すべきの由、仰せらるべし」 と頼朝を諌め、頼朝も長狭常伴とは遠縁となる広常に警戒心を抱いていたとされ、景益の言を入れて広常の館に向かうことを中断。道を戻って景益の館に入った。『三浦系図』によれば安西景益は義澄の娘を妻としていたうえ、頼朝とは幼なじみ(乳母子と伝わる)であったことから、頼朝の信頼も厚く、安西館へ戻ったと思われる。 ●三浦・安西氏系図 三浦為通―+―為継―――義継――――義明―――義澄――娘
安西館は安房国府に隣接しており、安西家は早くから安房の有力在庁として発展していたと考えられる。頼朝は安西館に到着すると景益の指示に従って、上総権介広常には和田義盛が、藤九郎盛長が千葉介常胤のもとにそれぞれ派遣され、さらに甲斐源氏・武田党へも北条時政を派遣し、武田党に信濃国の平家勢討滅を指示した。その後、上総・千葉の両氏がともに味方となることを約したため、上総国府にむけて北上を開始した。時に9月13日。その後、下総国府に入り、千葉氏の庇護を受けつつ秩父一党との交渉を開始し、その協力をとりつけたのちと思われる10月2日、上総権介広常の軍勢を主力とした頼朝軍は武蔵国へと渡り、頼朝の陣には、豊島清元・葛西清重・足立遠元らが参上した。 10月4日、三浦義澄ら三浦一党にとっては、惣領・大介義明を討った宿怨の仇敵である河越重頼・江戸重長・畠山重忠ら秩父一党が頼朝勢に参上してきた。三浦党にとって秩父党の降伏など受け入れられようはずもなかったが、頼朝も両党の対立を懸念して、 「重長等は源家を射たてまつると雖も、有勢の輩を抽賞せられずんばこと成がたからんか。忠直を存ずる者はさらに憤りをのこすべからざるの旨、兼ねてもって三浦一党に仰せ含めらる。彼等異心無きの趣を申す。よって各々相互に合眼して列座する者也」
として、過去を悔いて降伏してくる「有勢の輩」を味方としなければ、これから降伏してくる者もいなくなるであろうし、平家を討つことも叶わなくなる。もし三浦党が自分に忠誠を誓っているならば、彼等との遺恨を残さずに受け入れてくれと、かねて頼朝は三浦党に言い含めていた。 この頼朝の頼みに三浦党も折れ、4日、秩父党の降伏を素直に受け入れた。ただ、三浦党と秩父党の心の確執は両者の間に根深く残っていたと思われ、この秩父党参上から二十五年を経た元久2(1205)年6月、畠山重忠が謀叛の疑いで誅殺された事件(実は北条時政の陰謀)では、三浦泰村が畠山重保(重忠嫡男)を由比ヶ浜で斬殺。さらに武蔵国二俣川で重忠本隊と合戦を演じ、鎌倉に帰るや稲毛重成・榛谷重朝一族をことごとく討ち取るという、秩父党討滅の主導的な役割を演じている。 10月6日、頼朝は畠山重忠を先陣、千葉介常胤を後陣とした軍勢を整えて相模国へと入った。頼朝が土肥実平ひとりを具して、相模国を命辛々脱出してわずか一月あまり。7日には鎌倉へ入って義朝が崇拝していた八幡宮(元八幡)を遥拝し、義朝の館旧跡(現在の壽福寺)に自分の館を建てようとした。しかし、義朝の館跡は低地が少なく狭かったうえ、義澄の叔父・岡崎義実が建てた義朝供養の堂があったため、ここに館を建てることをあきらめている。 『吾妻鏡』の治承4(1180)年~治承5(1181)年周辺の重だった事がら
治承5(1181)年6月19日、頼朝は森冠者頼隆(八幡太郎義家の末子・陸奥六郎義隆の子)らを率いて納涼のために三浦へと出かけた。義澄と三浦一族はこの逍遥の案内役を申し出、さらに上総権介広常も郎党五十騎を率いて佐賀岡浜に出迎えた。頼朝を迎えた三浦一族はすべて下馬して平伏したが、広常は轡をゆるめて馬上で敬礼しただけであったので、頼朝に供奉していた佐原義連は下馬するようにと注意したが、これに広常は、 「公私共に三代の間、いまだその礼を為さず」 と下馬を拒否。頼朝も特別これを咎めだてることはせずに、三浦・上総氏らを率いて故義明の館跡に詣で、そこで酒宴となった。酒宴の席ではみなしたたかに酔い、岡崎義実は頼朝が着用していた水干を所望した。頼朝も笑って許し、義実は賜った水干を着て座に興を添えたが、これを見た広常は、 「この美服は広常如きが拝領すべきもの也。義実の様なる老者を賞せらるるの條、存外」 として義実を罵った。義実も老いたとはいえ悪四郎と呼ばれた血の気の多い猛将。広常の暴言を聞きとがめ、 「広常、功あるの由を思ふと雖も、義実が最初の忠に比べ難し。さらに対揚の存念有るべからず」 と、険悪な雰囲気となった。頼朝も言葉を発せずじっと見守っていると、頼朝の側近くにいた佐原義連が大叔父の義実を叱りつけ、また広常を睨みながら、 「入御によって義澄経営を励ます。この時いかでか濫吹を好むべけんや。もし老狂の致すところか。広常の躰、また物の儀に叶はず。所存あらば後日を期すべし。今御前の遊宴を妨ること、甚だ拠所無し」 として両人を引き離し、義実、広常も我に返り、おとなしく席に戻った。頼朝は義連のこの機転を内心で賞し、より一層、頼朝の信任を得ることとなる。 21日、2日間の三浦での逍遥を終えた頼朝は鎌倉へ戻ったが、亭主の義澄は武具と名馬(髪不撫)を献上した。この「髪不撫」は義澄が数々の戦いでともにし、一度として臆したことのないた愛馬であった。 義澄は、治承4(1180)年10月から舅の伊東祐親入道(大庭景親とともに頼朝を攻撃)を召し預かっており、赦免の機会をうかがっていた。そんな養和2(1182)年2月14日、義澄は北条政子が懐妊したとの便りを受け、これこそ好機と、さっそく頼朝の館に参上して義父の恩赦を願い出た。そもそも頼朝と祐親は頼朝の乳母・比企尼を通じて親密な時期があり、頼朝は祐親を直々に許したいから、祐親をただちに呼んでくるよう義澄へ申し渡した。義澄は喜び、さっそく屋敷に遣いをやって祐親に営中に来るよう伝え、営中で祐親の出頭を待っていたが、しばらくすると義澄の郎従が慌てて幕府の門に走りこんできた。郎党の言葉によると、祐親入道は頼朝に兵を向けたことを恥じ、この郎党が止める間もなく自刃してしまったとのことであった。義澄は頼朝の御前を辞すると館に馳せ戻るが、祐親はすでに事切れ、なす術もなかった。
翌15日、義澄は頼朝の側近・堀藤次親家を呼ぶと、祐親が自害したことを伝えた。これを聞いた頼朝は後悔して歎くとともに、祐親の潔さに感じ入り、嫡子・伊東九郎祐清(比企尼の聟)を営中へ召して祐親の自刃を伝えた。そして、祐清の過去の功績(祐親が頼朝を殺そうとした際に、頼朝に逃げるよう遣いを出して危機を救った)をもって彼を御家人に加えようとしたが、祐清はこれを拒否し、
「父、すでに亡し。後栄その詮無きに似たり。早く身の暇を賜るべし」 「父、すでに御怨敵として囚人となる。その子、いかでか賞を蒙らんや。早く身の暇を賜るべし」 と訴えたため、頼朝もやむなく彼を平家の徒党として処断した。一説には祐清は放免されて上洛し、寿永2(1183)年2月、平家の侍として木曽義仲の軍勢と越中に戦い、戦死したともされている。 寿永3(1184)年6月1日、鎌倉では京都へ帰る平頼盛(清盛の弟)の送別の会が行われた。この宴席には京都の世上に慣れている大江広元・平時家(平時忠の子)・小山朝政・三浦介義澄・結城朝光・下河辺行平・畠山重忠・橘公長・足立遠元・八田知家・後藤基清が相伴している。 8月8日、頼朝は弟・蒲冠者範頼を総大将とした平家追討軍を鎌倉から出陣させた。
●寿永3(1184)年8月8日、京都を出陣した武士(■:千葉氏、■:三浦氏、■:小山氏)
範頼の軍勢は8月27日に入洛、29日に範頼は参内して平家追討の官符を賜り、9月1日、京都を出陣した。彼には九州平定が命じられていた。一方、搦手軍を率いた源九郎義経は四国への出陣を命じられ、中国・四国両道からの追討作戦となった。 しかし、大手軍の範頼軍は慢性的な兵粮不足と舟不足のため、平家勢のいる九州に渡ることができず、麾下の諸将たちの間に厭戦気分が漂いはじめた。軍監として随っていた侍所別当・和田義盛すら帰国を騒ぎ立てる有様であった。範頼もこの状況を鎌倉に注進し、舟や馬の支援を願い出ているほどであった。 そんな中で、元暦2(1185)年正月26日、豊後国の宇佐宮神官の家柄である臼杵惟隆・緒方惟栄兄弟が範頼に兵船八十二艘の提供を申し出た。さらに周防国の宇佐那木遠隆が兵糧米を献上したことから、範頼勢の士気は高まった。さっそく範頼は軍議を開き、豊後国への渡海を決定した。ここで範頼は、 「周防国は、西は宰府に隣し、東は洛陽に近し。この所より子細を京都と関東に通じて計略を廻らすべきの由、武衛兼日の命あり。然れば、有勢の精兵を留めて、当国を守らしめんと欲す。誰人を差すべきや」 と諸将に問うと、千葉介常胤が進み出て、 「義澄は精兵たり。また多勢の者なり。早く仰せらるべし」 と進言した。しかし義澄は、 「意を先登に懸くるのところ、いたづらにこの地に留まらば、何を以てか功を立てんや」 と、戦いの無い地では功績をあげることはできないと辞退したが、範頼は留守居の重要性を説き、とくに勇敢な者を選んで留め置くのであると、再三に渡って説得したため、ついに義澄も折れて周防国守備に就くことになった。 2月1日、範頼軍は北条小四郎義時、下河辺庄司行平、渋谷庄司重国、品河三郎重清を先陣として豊後国に渡り、芦屋浦で平家党の太宰少弐原田種直、子の賀摩兵衛尉種益ら原田党と合戦となった。行平、重国はともに御家人中でも弓の上手で知られた侍であり、重国によって原田種直、賀摩種益は討ち取られ、種直の弟・美気三郎敦種は行平に討ち取られた。その後も平家の残党を追捕したが、戦乱によって民衆はすでに逃亡、米畜もなく、兵糧不足に陥った。このため、ふたたび和田義盛や大多和次郎義成、工藤一臈祐経らが鎌倉への帰参を訴え始めるほどとなった。範頼はこの嘆きを鎌倉に送り3月9日、頼朝のもとに到着している。一方、搦手軍で四国を抑えた義経はさらに西へと進軍し、周防国に入った。 3月21日、周防国衙船所の船所五郎正利が義経に舟を進呈。翌22日、義経は数十艘の兵船を従えて、長門国赤間ヶ関沖の壇ノ浦へ向けて船出を計画した。これを聞いた義澄は、義経に会うために大嶋津の陣所を訪れ、義経と対面した。義経は、 「汝、已に門司関を見る者なり。今案内者と謂ひつべし。然れば先登すべし」 と指示し、義澄も命を受けて壇ノ浦奥津辺へ船を進めた。一方、彦島を守備する平知盛率いる平家軍は近づいてくる源氏勢を見て出陣。知盛は赤間ヶ関を経て田之浦まで船を進めた。 翌3月24日、壇ノ浦の海上で源平最後の戦いが行われた。いわゆる「壇ノ浦の戦い」である。壇ノ浦の戦いは源平入り乱れての乱戦となり、平家は五百艘の船を三手に分けて、山峨兵藤次秀遠、松浦党を将軍として義経に当たらせた。しかし、午の刻(午後12時ごろ)ほどになって平家勢が劣勢となり、やがて敗走。二位尼(清盛禅門妻)は宝剣(天叢雲剣)を戴き、按察局は先帝(安徳天皇)を抱き奉り瀬戸内海に入水した。また、安徳先帝の母・建礼門院徳子も入水したが、着ていた御衣が浮き袋となって波間に漂い、渡辺右馬允眤が熊手で引き寄せて救出した。また、安徳先帝を抱いて入水した按察局も浮かびあがって助けられた。しかし、先帝はじめ二位尼は波間に沈み、ついに浮かび上がらなかった。平家一門の大将では、門脇前中納言平教盛、前参議平経盛入道、新三位中将平資盛、小松前少将平有盛、新中納言平知盛、左馬頭平行盛らが入水。前内大臣宗盛、右衛門督清宗父子、平大納言平時忠、左中将平時実、前内蔵頭平信基、兵部少輔藤原尹明らは捕獲され、栄華を誇った平家一門はここに滅亡した。
4月11日、鎌倉では勝長寿院(源義朝、鎌田正清らを祀る源氏の寺。南御堂)の柱立が執り行われ、頼朝も参列していた。このとき、義経からの使者が到来。「平家討滅」の知らせが伝えられた。 平家の滅亡後、いつ義澄が鎌倉に帰参したかは不明だが、5月7日の義経の鎌倉下向の際に同道したのかもしれない。これは壇ノ浦で捕らえた前内府平宗盛・右衛門督清宗父子を鎌倉に護送するためだったが、5月15日、酒匂宿に到着。義経は堀弥太郎景光を鎌倉に遣わして、明日鎌倉に入ることを伝えた。これを受けた頼朝は、北条時政を宗盛父子の迎えの使者として酒匂宿に派遣したが、頼朝から勝手任官のために勘気を蒙っていた義経は鎌倉に入ることを許されなかった。義経は5月24日、鎌倉の入口、腰越において頼朝の赦しを得るため嘆願状を認めて大江広元に提出した。しかし、結局鎌倉に入る許しは得られず、ふたたび宗盛父子を京都に連れ戻すよう命じられ、上洛ののち、頼朝から暗殺されかかったために、ついに反旗を翻すことになる。 文治元(1185)年10月24日、義澄は勝長寿院の供養会に出席し、先登の随兵十四人の一人に選ばれた。
●文治元(1185)年10月24日勝長寿院供養参列一覧(『吾妻鏡』
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文治3(1187)年8月15日、鶴岡八幡宮寺にて放生会が執り行われ、三河守範頼、平賀武蔵守義信、加賀美信濃守遠光、安田遠江守義定、駿河守広綱、小山兵衛尉朝政、千葉介常胤、三浦介義澄、八田右衛門尉知家、足立右馬允遠元が供奉した。このとき流鏑馬が執り行われ、義澄の嫡男・平六義村が射手として参加している。この放生会ではある珍事があった。 流鏑馬が執り行われたあと、諏方大夫盛澄(木曾義仲の郎党・手塚太郎光盛とは兄弟)という藤原秀郷の弓術を伝える流鏑馬の名手が召し出され、流鏑馬を射ることが命じられた。彼はもともと平家に属して京都にあり、鳥羽の城南寺の流鏑馬に参加し続けていたため、頼朝のもとに来るのが遅くなった。このため頼朝の怒りを買い、囚人として召し籠められていたが、彼を処断すれば秀郷以来の流鏑馬の流れが永久に消えてしまうと、頼朝は悩んでいた。そこで、今日の放生会で流鏑馬を成功させれば、彼を赦すことにしたようである。 まず、厩の中でももっとも扱いづらい馬を盛澄に与え、これに乗って射ることを命じた。このとき厩舎人は盛澄に密かにこの馬の癖を教えたため成功。続けて頼朝は五寸の串にはさんだ三枚のかわらけを射ることを命じた。これも盛澄は難なく射抜いた。すると、頼朝はこのかわらけを挟んでいた三つの串を射るように命じた。さすがの盛澄もこれには躊躇したが、心の中に故郷の武神・諏方大明神を祈り、鏃を平らにねじりまわして見事に射切った。これを見た人々は感動し、頼朝も見事と感服し彼を赦して御家人の列に加えた。彼の子孫は北条得宗家に仕えている。 文治4(1188)年1月20日、頼朝は伊豆山、箱根山、三島大社の参詣のため鎌倉を出立。源氏一門の武蔵守義信、三河守範頼、駿河守広綱、蔵人大夫頼兼、上総介義兼、新田蔵人義兼、奈胡蔵人義行、里見冠者義成、徳河次郎義季が扈従し、伊澤五郎信光、加々美次郎遠光、小山七郎朝光ら随兵三百騎がこれに従った。義澄は相模川に浮橋を造るよう命じられており、義澄はこのとき相模国府にあったのだろう。 このころの相模国守護は義澄が任じられていた。文治2(1186)年6月1日、頼朝は義澄と中村庄司宗平に相模国の主だった人民へ一人当たり米一斗を与えるよう指示している。このころの相模国の国司である「相模守」は平賀相模守惟義であったが、実際に国政を執っていたのは三浦氏・中村氏ら旧相模国在庁であったことがわかる。守護は国政の中枢である国衙を支配し、政務を執っていたと推測される。6月11日には、奥州藤原氏の藤原泰衡が京都へ送る貢馬・貢金・桑糸などが大磯宿に到着した。藤原泰衡は頼朝に敵対して逐電した源九郎義経を匿っており、義澄はこの貢物を差し止めるべきかどうか頼朝に伺いを立てた。これに対し、頼朝は「有限公物」であるため留め置くことはできないと、これを通すよう義澄に指示しており、義澄が相模国守護として将軍の命を直に実行する立場にあったことがうかがわれる。 文治5(1189)年1月19日、若君(のちの頼家)をして大臣大饗の儀を模し、かつて近衛府に出仕していた藤判官代邦通が有識者として奉行することになったが、平胡箙の差し方や丸緒の付け方などがわからなかった。このとき、義澄が囚人として預かっていた武藤小次郎資頼(平知盛の侍。少弐氏の祖)が故実を知っていると発言。頼朝は内々に彼を召し出すよう義澄に命じた。しかし、義澄は頼朝に面会すると「内々之を召し仰すべしといへども、若君の御吉事なり、囚人をしていかでかこれに役せんや」と、囚人を用いるのは吉事にふさわしくないと言上した。すると頼朝はただちに資頼を赦免するとともに、沙汰すべきことを命じた。資頼はこの厚免に愁眉を開き、故実を伝えた。 その後、頼朝は奥州藤原氏を討つべく準備を整え、7月8日、千葉介常胤が新調の旗を頼朝に献上した。旗は前九年の役の際に鎮守将軍頼義の旗と同様の寸法に整えたもので、義澄を使いとして鶴岡別当坊に旗を移し、七日間の祈祷が行われた。そして7月19日、頼朝は奥州藤原氏追討の軍勢を北都平泉に発向した。
●文治5(1189)年7月19日奥州出兵名簿(『吾妻鏡』)
8月7日、鎌倉勢本隊は奥州藤原氏の先陣・西木戸太郎国衡(藤原泰衡の異母兄)が守る伊達郡阿津賀志山に近い国見駅に到着。8月10日の戦いで阿津賀志山を攻略した。8月12日、多賀城において海道軍を率いてきた千葉介常胤、八田右衛門尉知家と合流。8月21日、平泉攻略の軍勢が平泉へ向かったが、泰衡の郎従が栗原、三迫に砦を築いて抵抗を続けていた。しかし、大軍の鎌倉勢の前には敵わず、大将の若次郎は義澄に討たれ、九郎大夫は所六郎朝光に討たれた。そして、22日、頼朝はすでに主が消えた平泉に入った。
9月3日、平泉を遁れた泰衡は「夷狄嶋(北海道か?)」に渡るために糠部郡に駐屯したが、このとき譜代の郎従・河田次郎が郎従を率いて泰衡を囲み、殺害。陸奥出羽国押領使・藤原泰衡はわずか二十五歳の生涯を閉じた。 首は河田次郎から後日、頼朝に献じられたが、頼朝は河田次郎の変節をなじって処刑している。 9月4日、頼朝はさらに奥州を平定するために志波郡陣ガ丘(紫波町宮手字陣ヶ岡)に移った。これに泰衡の一族で樋爪館(紫波郡紫波町南日詰箱清水)の樋爪太郎俊衡法師が館を焼いて逃亡。頼朝は義澄に彼の追捕を命じ、義澄は弟の十郎義連、嫡男・平六義村を率いて出兵した。義澄らは俊衡一族を捕らえることはできなかったが、俊衡一党は9月15日、俊衡入道、弟の五郎季衡、俊衡の三人の子(大田冠者師衡、次郎兼衡、河北冠者忠衡)、季衡の子(新田の冠者経衡)がそれぞれ厨川の頼朝の陣に降伏してきた。 頼朝は彼らと対面するが、すでに六十歳を越えた俊衡入道は十日にもわたる逃亡の日々に疲れきっており、さすがの頼朝も哀れに思い、八田知家に預けた。知家の陣に連れてこられた俊衡入道は法華経を読経し続けるのみで、ほかには一言も発しなかったという。知家は熱心に仏教を信仰する男であり、この態度に感服。翌16日、知家は頼朝に面会して、このことを言上した。頼朝も日ごろから法華経を信仰していたことから、俊衡入道を赦した上、本領・樋爪を安堵した。
9月19日、厨河を発って平泉へ帰還。翌20日、平泉において今回の戦いの論功行賞が行われた。おそらく義澄以下三浦一族に対しても行賞が行われたと思われる。23日、頼朝は藤原秀衡建立の無量光院を巡礼した。宇治の平等院鳳凰堂を模した寺院であり、平泉の文化レベルの高さを垣間見たことだろう。さらに中尊寺大長寿院の二階大堂に衝撃を受けたと思われる。10月24日に鎌倉に帰還した頼朝は、すぐに二階大堂を模した寺院・永福寺の建立を計画している。
文治6(1190)年11月7日、頼朝は上洛を果たした。粟田口から入京した鎌倉勢は六波羅に駐屯。義澄は水干を着し矢を背負い頼朝に扈従。9日、頼朝は後白河法皇の竜顔を拝すため仙洞御所に参内。先陣の随兵として最前に義澄、続いて小山兵衛尉朝光、小山田三郎重成が続いた。 11月11日、頼朝の岩清水八幡宮参詣に、頼朝の後ろに三河守範頼、駿河守広綱、相模守惟義、伊豆守義範、村上右馬允経業、北条小四郎義時、宇都宮左衛門尉朝綱、八田右衛門尉知家、足立右馬允遠元、比企藤四郎能員、千葉介常胤と並んで供奉した。さらに29日、夜の院参について、義澄を筆頭に足立右馬允遠元、下河辺庄司行平、小山七郎朝光、千葉新介胤正、八田太郎朝重、小山田三郎重成、三浦十郎義連、三浦平六義村、梶原左衛門尉景季、加藤次景廉、佐々木三郎盛綱が供奉した。
そして12月11日、頼朝は院参の上、後白河法皇に数刻祇候。そこで御家人十名について挙任した。法皇からは勲功の労によって二十名を挙げるよう指示があったが、頼朝はこれを辞退し、結局略して十名を推挙することとなった。義澄は右兵衛尉への推挙であったが、義澄は嫡子・義村にその勲功を譲り、義村が右兵衛尉に任官した。 建久2(1191)年1月2日、三浦邸において椀飯が行われ、義澄が剣を持ち、弓は岡崎四郎義実、行騰は和田三郎宗実、砂金は三浦左衛門尉義連、鷲羽は比企右衛門尉能員がそれぞれ捧げ、馬は右兵衛尉義村、三浦太郎景連が献じた。 御所の新造にともない、6月17日、義澄には大御厩造営奉行が命じられた。この新造の厩には8月18日、御家人たちから献上された馬が十六疋繋がれた。このうちの鴾毛三疋は後白河院に献上のため、とくに義澄に預けられていたが、11月3日、京都に遣わされた。三浦氏はその後、幕府の御厩別当を務めており、義澄がこのとき造営した先例が継承されたのだろう。 このころ、義澄も屋敷を新造しており、閏12月7日、頼朝が義澄邸を訪問。義村、景連、佐貫四郎、大井兵衛次郎が召されて相撲の勝負をしている。 建久3(1192)年3月23日、頼朝の岩殿観音堂(逗子市久木)参詣につき、義澄、義連兄弟が供奉した。そして7月4日、御台所政子の御産間の調度を義澄、千葉介常胤が調え、右兵衛尉義村、左兵衛尉常秀をして御産間に運ばせた。 7月26日、勅使として肥後介中原景良、中原康定が鎌倉に参着した。頼朝を征夷大将軍に任じる除書がもたらされた。勅使は鶴岡八幡宮寺の庭に立ち、使者に除書を進ずる旨を伝えた。このため頼朝は数多いる御家人の中からとくに義澄を使者に選び、比企左衛門尉能員、和田三郎宗実をつけて宮寺に向かわせ、除書を請け取った。このとき勅使が義澄の名を問うたが、義澄は関東では「三浦介(三浦相模介)」を称しているが、公的に「相模介」の除目は下されていないため、「三浦次郎」と名乗っている。御所では頼朝はすでに衣冠束帯に身なりを整えて西廊で除書を待っており、義澄は除書を捧持して頼朝に進上した。ここに征夷大将軍としての源頼朝が誕生した。義澄がとくに選ばれたのは、義澄の父・三浦大介義明が命を捨てて頼朝を援けた功績によるもので、その感謝を義澄に対して酬いた。勅使は一門・武蔵守義信邸に招かれて供応された。 8月9日早朝、御台所北条政子は男子を出産した。名乗りは千萬。のちの三代将軍実朝である。義澄は北条小四郎義時、佐原十郎左衛門尉義連、野三刑部丞成綱、藤九郎盛長、下妻四郎弘幹の五名とともに御護刀を献じた。翌10日に行われた若君二夜儀は武蔵守義信と義澄が沙汰した。
この頃、三浦氏庶子流の一族たちが惣領である義澄の命に服さない者もあらわれており、義澄が頼朝に訴え出たのだろう。建久4(1193)年正月21日、頼朝は三浦一族に対して、惣領である義澄の下知に従うよう命じている。三浦氏庶流(和田氏、岡崎氏、佐原氏など)もそれぞれ独立した御家人として遇されており、惣領制の瓦解が始まっていた様子が見える。とくに三浦大介義明の長男系統である和田義盛は「侍所別当」という御家人を統率する役目を担っており、官途も「左衛門少尉」であった 。宗家である義澄の指示に従わないことも多々あったと思われる。
11月27日、永福寺の薬師堂供養が行われ、先陣の随兵として義澄も列した。永福寺の薬師堂は三堂の北側にあった寺院で、中央の二階堂とは回廊で結ばれ、釣殿への回廊が伸びていた。 建久5(1194)年2月2日、北条小四郎義時の嫡男・金剛が十三歳にて元服することとなり、今夜、幕府に召されて元服の儀が執り行われることとなった。幕府西侍に主だった御家人が召し集められ、北条時政が嫡孫・金剛を伴って参上。頼朝が出御して加冠の儀が行われ、諱の一字「頼」が与えられ、金剛は「北条太郎頼時」と名乗ることとなった。のちの三代執権・北条泰時である。この座で頼朝は義澄を座右に召すと、 「この冠者を以て聟と為すべし」と申し含め、義澄は「孫女の中より好婦を撰びて、仰せに随うべし」と返答したという。三浦氏と北条氏を縁戚とすることで幕府をより磐石なものにする頼朝の考えがあったのだろう。 ●金剛元服の想像図(幕府西侍配置)
12月2日、寺社にそれぞれ奉行人が定め置かれた。義澄は畠山重忠、義勝房成尋とともに永福寺(二階堂)の奉行人に定められている。 建久6(1195)年2月14日、頼朝は東大寺供養のため、畠山次郎重忠を先陣として鎌倉を発し上洛の途につき、3月4日、京都六波羅に到着。3月9日、京都を発って奈良に向かった。 ●建久6(1195)年3月10日『東大寺参詣供奉人交名』(『吾妻鏡』)
5月15日夕方、京都六条大宮のあたりで義澄の郎従と足利五郎の郎従が喧嘩となり乱闘が起こった。これを聞いた義澄の甥・和田左衛門尉義盛や弟の佐原左衛門尉義連が義澄の旅宿に駆けつけた。一方、足利五郎の宿所には小山左衛門尉朝政、小山五郎宗政、小山七郎朝光のほか大胡重俊、佐貫広綱ら秀郷流藤原一族の御家人が駆けつけ、一触即発の状態になった。これに頼朝は侍所司の梶原景時を両陣に派遣して宥めたため、夜になってようやく収まった。ここに見える「足利五郎」は秀郷流藤姓足利氏の人物とされており、鎌倉殿の統制下ではあっても、いまだ古い一族同士の結びつきは非常に強かったことがうかがえる。 9月28日、前律師忠快が義澄の請いを容れて三浦に向かった。忠快は門脇中納言平教盛の子で壇ノ浦の合戦で捕らえられ伊豆に流罪とされていたが、その徳の深さから頼朝以下の帰依を受けるようになっていて、源家の菩提寺というべき勝長寿院に住んでいた。義澄も仏法を深く信仰する人物であり、忠快の教えを請うために三浦へ招聘したのだろう。おそらく義澄はこのころからやや体調を崩し始めていたと思われる。 建久10(1199)年4月12日、諸訴訟などにつき、将軍家がこれを裁許することが停止された。問注所も4月1日、幕府の外に新たに建造されることとなっており(それまでは大夫屬三善康信入道善信邸に臨時に置かれていた)、心機一転された。将軍・頼家は自分の取り巻きの若い御家人の乱暴を助長しており、それを義時や大江広元らは苦々しく思っていたようである。また北条時政も将軍の権威を取り上げて自らの権力を延ばそうとする野心も見え隠れする。 結局、以降の訴訟は大小を問わず、北条時政、江間四郎義時、兵庫頭大江広元、大夫屬三善康信入道善信、掃部頭中原親能、三浦介義澄、八田右衛門尉知家、和田左衛門尉義盛、比企右衛門尉能員、藤九郎盛長入道蓮西、足立左衛門尉遠元、梶原平三景時、二階堂民部大夫行政の十三名をもって執り行われることとなる。いわゆる「十三人の合議制」である。 6月30日、頼朝と政子の次女・三幡姫(乙姫)が十四歳の幼さで亡くなった。政子は悲嘆に暮れ、乳母夫である掃部頭中原親能は出家を遂げてしまった。夜に入って姫の遺体は親能の亀谷堂の傍らに葬られた。現在の岩船地蔵堂(長女の大姫の墓所とされているが)がそれに当たると思われる。義時や義澄ら十二名の御家人が葬儀に参列したと伝わる。 10月28日、千葉介常胤、三浦介義澄を筆頭とする六十六名の有力御家人が鶴岡八幡宮寺の回廊に集まった。これは御家人を讒言し続ける梶原景時に対する弾劾につき、一味同心を誓うためであった。各御家人が弾劾状に連判したのち、和田左衛門尉義盛、三浦右兵衛尉義村が大江広元に提出した。 ●建久10(1199)年10月28日『梶原景時弾劾状』(『吾妻鏡』:『全訳吾妻鏡』所収)
正治2(1200)年正月3日、椀飯の沙汰を義澄が行うが、彼の体調がどのようなものだったかは伝わらない。
しかし、それからわずか二十日後の1月23日、義澄は幕府設立のために尽くしきった波乱の生涯を閉じた。享年七十四。彼の死によって三浦一族、とくに長男系の和田氏に対する影響力が大きく損なわれることとになったと思われ、「右兵衛尉」に過ぎない義澄の嫡子・義村は、「左衛門尉」である和田義盛・常盛父子らに官途面で数段下位に立たされた。このことがのちの「和田合戦」の義村の裏切りに関係しているのかもしれない。 ●三浦義澄周辺系図 ●三浦義明―+―三浦義澄―+―三浦泰村
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