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●三浦氏の惣領家●
三浦氏六代当主。三浦介義澄の嫡男。母は伊東祐親入道娘。妻は河越次郎重時女(後妻?)。通称は平六。官位は従五位下のち正五位下。官職は右兵衛尉、左衛門尉、駿河守。幕府においては御厩別当。役職は土佐守護職、安房守護職、淡路守護職、紀伊守護職(?)。生年は不明だが、父の三浦介義澄が大治2(1127)年生まれで、次男の駿河次郎泰村が元暦元(1184)年生まれであり、久寿2(1155)年ごろの生まれであろうか。
治承4(1180)年の頼朝挙兵の際には、祖父・義明、父・義澄、従兄・和田義盛らが参戦していることから、名は見えないが、おそらく義村も三浦勢の一員として参戦していたと思われる。
寿永元(1182)年7月12日、北条政子が出産のために比企が谷の館まで移り、8月11日夜、政子の陣痛が始まると、頼朝は祈祷のために伊豆権現、箱根権現ならびに近国の宮に奉幣の使いを送った。このとき「三浦平六」が「安房東條寺(現在の天津神明神社)」へ使者として赴いている。これが史料上の義村の初見である。三浦氏は杉本太郎義宗以来、安房国北東部に所領を得ていた傍証である。平安時代末期には源義朝や上総平氏とも友好的な関係を持ちつつ、三浦半島と安房国を頻繁に行き来していたのだろう。 その後はしばらくその活躍を見ることはできないが、平家との戦いには父の三浦介義澄らとともに参戦しており、元暦元(1184)年8月8日、頼朝の代官・源範頼に随い西国へと赴いた。頼朝は長谷の稲瀬川に桟敷を敷いて彼らを見送った。 ●元暦元(1184)年8月8日「西国下向御家人交名」(『吾妻鏡』元暦元年八月八日条)
9月2日、京都を出陣した範頼の軍勢はさらに西に向かい、翌元暦2(1185)年1月26日、元暦2(1185)年1月26日、豊後国の豪族・臼杵二郎惟隆・緒方三郎惟栄らが総大将・三河守範頼に進呈した兵船八十二艘に乗り、九州の平家党を討つために船出したが、父・義澄が千葉介常胤の推薦によって周防国の守護を命じられて留まったため、おそらく義村も九州に渡らず、周防に残ったと思われる。 ●元暦2(1185)年1月26日「豊後国渡海御家人交名」(『吾妻鏡』元暦ニ年一月二十六日条)
その後、鎌倉軍搦手の大将・源九郎義経が四国から周防国に渡ってきた。3月21日、周防国衙船所の船所五郎正利が義経に舟を進呈。翌22日、義経は数十艘の兵船を従えて、長門国赤間ヶ関沖の壇ノ浦へ向けて船出を計画した。これを聞いた父・義澄は、義経に会うために大嶋津の陣所を訪れ義経と対面した。義経は義澄に、 「汝、已に門司関を見る者なり。今案内者と謂ひつべし。然れば先登すべし」 と指示し、義澄も命を受けて壇ノ浦奥津辺へ船を進めており、義村も同道したと思われる。一方、彦島を守備する平家の大将・新中納言平知盛率いる平家軍は近づいてくる源氏勢を見て出陣。知盛は赤間ヶ関を経て田之浦まで船を進めた。そして翌3月24日、赤間が関沖、壇ノ浦で行われた戦いが「壇ノ浦の合戦」である。三浦氏は相模から安房にかけて海をまたにかける海将であり、壇ノ浦の戦いでは三浦氏も大いに活躍したのだろう。結果、平家一門は滅亡した。 4月11日、鎌倉では勝長寿院(源義朝、鎌田正清らを祀る寺。南御堂)の柱立が執り行われ、頼朝も参列していた。このとき義経からの使者が到来。「平家討滅」の知らせが伝えられた。 10月24日、勝長寿院供養が執り行われ、巳の刻(午前九時)になって頼朝は邸から徒歩で長勝寿院へと向かい、数多くの御家人が随兵としてこれに付き従った。義村は寺の門の東側を守る随兵として参じた。 ●長勝寿院供養に供奉した御家人(『吾妻鏡』文治元年十月二十四日条)
文治2(1186)年11月12日、若公万寿(源頼家)が鶴岡八幡宮寺に参詣した際、小山五郎宗政、小山七郎朝光、千葉平次常秀、梶原三郎景茂、梶原兵衛尉景定とともに供奉した。 文治5(1189)年7月19日、頼朝は奥州藤原氏追討のため鎌倉を発った。このとき義村も従軍している。
●文治5(1189)年7月19日奥州出兵名簿(『吾妻鏡』 )
8月7日、鎌倉勢本隊は奥州藤原氏の先陣・西木戸太郎国衡(藤原泰衡の異母兄)が守る伊達郡阿津賀志山に近い国見駅に到着。8月9日夜、頼朝は明日の明け方に阿津賀志山を攻略することを諸将と申し合わせた。しかし、義村、葛西三郎清重、工藤小次郎行光、工藤三郎祐光、狩野五郎親光、藤沢二郎清近、河村千鶴丸(十三歳)の七騎が示し合わせて、夜のうちにひそかに畠山重忠の陣の前に出て、山越の抜け駆けを試みた。畠山重忠はこれを知ったが、まったく落ち着いて、重忠が先陣を承っている以上、重忠よりも前に合戦した功績はすべて重忠のものであるとし、先頭に進もうとする者を妨げることは本意ではない上、勲功を争うことに似ていると、とくに問題にしなかった。 一方、夜のうちに山越えをした義村らは、終夜山を歩き、ようやく砦の木戸口にたどり着いた。ここで彼らは大音声で名乗りを上げると、泰衡の郎従、部伴藤八らの武勇の者が砦から繰り出してきた。これに工藤小次郎行光が先頭を切って馳せ向かい打ち合った。この激戦で狩野五郎親光が討死を遂げた。 工藤行光は「六郡第一強力者」とされる部伴藤八と轡を並べて押し合い、組み合い、ようやく彼を討ち取った。行光は彼の首を鳥付に高く掲げて木戸を攻め破ると、騎馬武者二騎が馬から落ちて組み打ちを演じていた。行光はその名を問うと、藤沢清近であった。行光は早速清近に助太刀して敵兵を討った。清近はその合力に感動し、行光の子を婿に迎える約束を取り付けた。葛西清重、河村千鶴丸も敵を数人討ち取る功績を挙げている。しかし、この戦いで義村の活躍ぶりは描かれていない。 8月10日、阿津賀志山を攻略した鎌倉勢は、12日、多賀城において海道軍を率いてきた千葉介常胤、八田右衛門尉知家と合流。21日、栗原、三迫の奥州勢を打ち破ると、22日、焼け野原となっていた平泉に入った。すでに主の藤原泰衡は平泉の各所に火を放ち逃亡していたのであった。
9月3日、平泉を遁れた泰衡は「夷狄嶋 (北海道か?)」に渡るために糠部郡に 駐屯したが、このとき譜代の郎従・河田次郎が郎従を率いて泰衡を囲み、殺害。陸奥出羽国押領使・藤原泰衡はわずか二十五歳の生涯を閉じた。首は河田次郎から後日、頼朝に献じられたが、頼朝は河田次郎の変節をなじって処刑している。 9月4日、頼朝はさらに奥州を平定するために志波郡陣ガ丘(紫波町宮手字陣ヶ岡)に 移った。これに泰衡の一族で樋爪館(紫波郡紫波町南日詰箱清水)の樋爪太郎俊衡法師が館を焼いて逃亡。頼朝は義澄に彼の追捕を命じ、義澄は弟の十郎義連、嫡男・義村らを率いて出兵した。結局、義澄らは俊衡一族を捕らえることはできなかったが、俊衡一党は9月15日、俊衡入道、弟の五郎季衡、俊衡の三人の子(大田冠者師衡、次郎兼衡、河北冠者忠衡)、季衡の子(新田の冠者経衡)がそれぞれ厨川の頼朝の陣に降伏してきた。頼朝は彼らと対面するが、すでに六十歳を越えた俊衡入道は十日にもわたる逃亡の日々に疲れきっており、さすがの頼朝も哀れに思い、八田知家に預けた。知家の陣に連れてこられた俊衡入道は法華経を読経し続けるのみで、ほかには一言も発しなかったという。知家は熱心に仏教を信仰する男であり、この態度に感服。翌16日、知家は頼朝に面会して、このことを言上した。頼朝も日ごろから法華経を信仰していたことから、俊衡入道を赦した上、本領・樋爪を安堵した。
9月19日、厨河を発って平泉へ帰還。翌20日、平泉において今回の戦いの論功行賞が行われた。おそらく義澄、義村以下の三浦一族に対しても行賞が行われたと思われる。23日、頼朝は藤原秀衡建立の無量光院を巡礼した。宇治の平等院鳳凰堂を模した寺院であり、平泉の文化レベルの高さを垣間見たことだろう。さらに中尊寺大長寿院の二階大堂に衝撃を受けたと思われる。10月24日に鎌倉に帰還した頼朝は、すぐに二階大堂を模した寺院・永福寺の建立を計画し ている。
文治6(1190)年11月7日、頼朝は上洛を果たした。粟田口から入京した鎌倉勢は六波羅に駐屯することとなる。義村は随兵の五十七番として供奉した。 11月11日、頼朝の岩清水八幡宮参詣に、頼朝の後ろに三河守範頼、駿河守広綱、相模守惟義、伊豆守義範、村上右馬允経業、江間小四郎義時、宇都宮左衛門尉朝綱、八田右衛門尉知家、足立右馬允遠元、比企藤四郎能員、千葉介常胤と並んで供奉した。さらに29日、夜の院参について、義澄を筆頭に足立右馬允遠元、下河辺庄司行平、小山七郎朝光、千葉新介胤正、八田太郎朝重、小山田三郎重成、三浦十郎義連、三浦平六義村、梶原左衛門尉景季、加藤次景廉、佐々木三郎盛綱が供奉した。
そして12月11日、頼朝は院参の上、後白河法皇に数刻祇候。そこで御家人十名について挙任した。法皇からは勲功の労によって二十名を挙げるよう指示があったが、頼朝はこれを辞退し、結局略して十名を推挙することとなった。義澄は右兵衛尉への推挙であったが、義澄は義村にその勲功を譲り、義村が右兵衛尉に任官した。 建久2(1191)年1月2日、三浦邸において椀飯が行われ、義澄が剣を持ち、弓は岡崎四郎義実、行騰は和田三郎宗実、砂金は三浦左衛門尉義連、鷲羽は比企右衛門尉能員がそれぞれ捧げ、馬は右兵衛尉義村、三浦太郎景連が献じた。
建久4(1193)年8月15日、16日で行われた鶴岡八幡宮寺の放生会では、16日の流鏑馬に義村が参加。弓術に優れた若手の御家人十二名が妙技を披露した。そして翌17日、先に反逆の疑いで捕らわれていた三河守範頼が北条時政の本貫地である伊豆国田方郡に流されることとなり、伊豆国の在庁出身の狩野介宗茂、宇佐美三郎祐茂両名が守護して下向となった。 建久5(1194)年2月2日、御所において江間義時の嫡男・金剛(のちの泰時)が十三歳にて元服した。元服式では、祖父の北条時政が金剛の手を引いて西侍にあらわれたのち、頼朝が上座に座り元服式が執り行われた。このとき、脂燭の役を務めたのが、最前に列する武蔵守義信と千葉介常胤であった。元服後は頼朝の一字を賜り「太郎頼時」と改められた。 ●金剛元服の想像図(幕府西侍配置)
その後の歌舞宴ののち、頼朝は三浦介義澄を傍に召して「この冠者を以て聟と為すべし」と申し含め、義澄は「孫女の中より好婦を撰びて、仰せに随うべし」と返答したという。こののち、頼時(泰時)に嫁いだ娘が義村の娘で、のちの矢部禅尼(北条時頼の祖母)である。 8月8日の頼朝の相模国日向山参詣に供奉し、閏8月1日には頼朝の三浦周遊に供奉した。頼朝は三浦半島の先端、三崎津に山荘を建てており、三浦介義澄が酒や珍味を取り揃えて接待をつとめている。またこの三崎の山荘からの眺望は絶景であったようで、白波が岸壁に打ち寄せる様、絶海の岸壁の地形などが興をそそったと伝えられている。
建久6(1195)年の頼朝の東大寺供養に供奉して上洛。3月10日、東大寺に到着した。27日には参内の随兵八騎の一人として供奉した。 4月1日には、京都勘解由小路京極で、平家の家人で平家滅亡後十年にわたって行方をくらましていた「前中務丞宗資父子」を結城七郎朝光、梶原平三景時とともに逮捕した(『『吾妻鏡』』)。頼朝は多数の御家人を従えて東大寺に入り、その威に押された僧侶大衆はみな引いたが、その中で不敵な態度をしていたのか頭から袈裟を被った宗資父子は「怪しばみたる者」と頼朝の目に映った。頼朝はすぐに梶原景時を召し出すと、南大門の東脇に怪しい者がいるので詮索せよと命じた。これを受けた景時は、大衆の中を掻き分けて、この怪しい僧侶を捕らえると袈裟を引き剥がした。すると鬚は剃っているが髪は剃っていない怪しげな男であった。「何者ぞ」と景時が問うと、観念したのか彼は「平家の侍、薩摩中務丞宗資と申す者にて候なり」と白状した。彼は頼朝を殺害するために南大門脇に隠れていたのだという(『平家物語』)。頼朝はその心は神妙であると、大仏供養が終わるまで軟禁し、京都に召し連れたのちに六条川原で処刑したという。 4月15日、頼朝は岩清水八幡宮に参詣した。義村は先陣の随兵十名の一人として供奉した。
この上洛が頼朝の最後の上洛となった。建久10(1199)年正月11日、病が篤くなった頼朝は出家剃髪。その二日後の13日に五十三歳で亡くなった(『北条九代記 上』)。その死因は様々伝えられているが、その時期の『吾妻鏡』の記録がまったく消え失せており、詳しいことは不明である。一説には相模川の橋供養の帰りに急病に倒れたといわれる。 正治元(1199)年10月25日、結城朝光は夢のお告げがあったとして幕府侍所で亡き頼朝のために「人別一万反弥陀名号」を唱えることを同僚の御家人に勧めたため、彼らはこぞって阿弥陀仏の名号を唱えた。このとき朝光はふと「吾聞、忠臣は二君に事えずと。殊に幕下の厚恩を蒙るなり。遷化の刻、遺言有るの間、不令出家遁世せしめざるの条、後悔一に非ず。且今世上を見るに、薄氷を踏むが如し」と嘆息を漏らした。朝光は頼朝の乳母・寒河尼を母とし、十四歳のときから近侍して「無双近仕」と称されるほど鍾愛された人物であり、その心を察して人々はみな涙を流したという。 しかし、このことを梶原景時がどこからか聞きつけ、朝光の「忠臣は二君に事へず」という発言を将軍・頼家に讒言した。これを聞いた御台所北条政子の実妹で御所の女房・阿波局は翌27日、朝光にそっと「景時の讒訴に依て、汝、已に誅戮を蒙らんと擬す、その故は『忠臣は二君に事へずの由述懐せしめ、当時を謗り申す、これ何ぞ仇敵にあらざるや、傍輩を懲肅せんが為に、早く断罪せらるべし』とつぶさに申す所なり、今に於いては虎口の難を遁るべからざるか」と伝えた。これを聞いた朝光は困り果て、「断金朋友」である「前右兵衛尉義村」の屋敷を訪れて、火急の用事があることを告げて義村と会談。朝光は、 「予、亡父政光法師が遺跡を伝領せずと雖も、幕下に仕うるの後、始めて数箇所の領主と為る。その恩を思はば、須弥の頂上より高し、その往事を慕うの余り傍輩の中に於いて『忠臣は二君に事へざる』の由を申すの處、景時、讒訴の便、已に申し沈むの間、忽ち以って逆悪に処せられ誅を蒙らんと欲するの旨、只今その告げあり、二君と謂ふは必ずしも父母兄弟に依らざるか、後朱雀院、御悩危急の間、御位を東宮後冷泉院に譲り奉り御ひ、後三条院を以って立坊奉らむ、時において宇治殿を召し、両所の御事を仰せ置かるる、今上の御事に於いては、之を承る由申し給ふ、東宮の御事に至りては御返事申されずと、先規この如し、今一身の述懐を以って強ち重科に処せられる難からんか」 と弱りきって話した。 これを聞いた義村は、 「縡は已に重事に及ぶなり、殊に計略無くば、曽ってその災いを攘い難からんか、凡そ文治以降、景時が讒に依りて命を殞い失滅するの輩、勝に計るべからず、或ひは今において見存し、或いは累葉愁墳を含むことこれ多し、即ち景盛、去る比、誅せられんと欲す、併せて彼が讒より起こる、その積悪定めて羽林に帰し奉るべし、世の為、君の為、退治せぬこと有るべからず、然れども弓箭にて勝負を決せば、また邦国の乱を招くに似たり、須く宿老等に談合すべし」 と、この親友の為に一肌脱ぐことを決め、とりあえず和田左衛門尉義盛と藤九郎盛長入道を屋敷に招き、朝光の話をつぶさに伝えた。すると彼らは、 「早く同心の連署状を勤めてこれを訴え申すべし、彼の讒者一人を賞せらるべきか、諸御家人を召し仕わらるべきか、まず御気色を伺ひて、裁許無くば直に死生を諍ふべし、件の状、誰人の筆削たるべきや」 と、やはりこの二人の宿老も景時に対しては怒りをもっていたことが感じられる。早速に諸御家人の連署状を作成して嘆願することを決定した。誰にこの連署状の筆を執ってもらうかについて、義村は、 「仲業文筆誉れの上、景時に於いて宿意を挿むか」
と、文筆に長けている右京進中原仲業は景時にも個人的に恨みを持っているとして、仲業を屋敷に招いた。すると仲業はすぐに走り来て、この話を聞いて手をたたいて喜び、 「仲業、宿意を達せんと欲す、堪えずと雖も、盍ぞ筆を励まさざらんや」 と、その連判状の作成を喜んで引き受けた。この景時追放の密議が終わり、義村は彼らと杯を交わし、夜に入っておのおの三浦屋敷を退いていった。おそらく義村らはその後すぐに有力御家人に対して事の次第を伝え、明日28日に鶴岡八幡宮寺に参集するよう伝えたと思われる。翌28日巳刻(午前10時頃)には鶴岡八幡宮寺の廻廊に多くの御家人が集結した。 ●建久10(1199)年10月28日『梶原景時弾劾状署名宿老六十六名』(『吾妻鏡』:『全訳吾妻鏡』所収)
彼らは景時に対して向背することを八幡大菩薩に誓い、仲業が訴状を捧げて廻廊に並ぶ御家人たちに対して読み上げた。義村が訴状の中でもっとも感銘を受けた文章が「鶏を養はば狸を蓄せず、獣を牧さば狼を育てず」という部分であったという。御家人(鶏、獣)の集団である幕府は異端の存在である景時(狸、狼)を認めないという意味であろうが、自らをも戒める意味にも捉えたのかもしれない。 訴状が読み上げられたあと、六十六名もの御家人が署名し、判を加えた。しかし、その中で当の結城朝光の実兄である小山五郎宗政が署名はしたが判を加えなかったことに、弟の危機を救うために朋輩たちが身を捨てて事に及ぼうとしているのに、兄である宗政が異心を持っているのはいかがなものかと批判が集まっている。こののち、和田義盛、三浦義村がこの連判状を持って大江広元に手渡した。
しかし、大江広元はこの連判状を受取ったものの、どのように処理してよいか迷った。確かに景時の讒言妄言はいまさら言うことはないが、右大将家は景時を信頼して彼もこれに答えていた。このような事態になったからといってすぐに罪科に問うことはいかがなものか。景時とほかの御家人たちとの間を取り持つべきかどうか、考えに考えており、この訴状をしばらく将軍・頼家に披露していなかった。すると11月10日、広元は和田義盛と御所で出くわし、義盛から「彼の状定めて披露せらるるか、御気色は如何に」と問い詰められた。義盛はおそらく裁許が遅いことに苛立っていたのだろう。広元はやむなく「未だ申さず」と答えた。すると、義盛は目を剥いて「貴客は関東の爪牙、耳目として、已に多年を歴るなり、景時一身の権威を怖れて諸人の欝陶を閣く、寧ろ憲法に叶わんや」と怒り散らした。これに対し、広元もプライドを傷つけられたのだろう。気色ばんで「全く畏怖の儀にあらず、ただ彼の損亡を痛む計なり」と反論。すると義盛はさらに詰め寄って、「恐れずば諍か数日を送るべしや、披露せらるべきや否や、今これを承り切るべし」と責め立てた。広元も怒ったのだろう。「申すべし」と言い捨てて座を立った。 11月12日、広元は約束どおり、連判状を頼家に披露した。これを読んだ頼家はただちに景時にこの連判状を渡すと、どういうことだと景時に説明を求めた。結局、景時は陳謝することはせず、翌13日、一族を率いて相模国一宮の屋敷に出奔した。ただ、三男の三郎兵衛尉景茂のみは鎌倉に留まった。彼は18日の比企邸における酒宴で頼家に召し出され、父・景時の非を糾されたが、同席していた中原仲業の個人的な中傷がこうなったと披露し、諸御家人から「神妙」と評価されている。 12月9日、梶原景時は相模国一宮の屋敷から鎌倉に帰参して、連判状のことについて日々詮議を受けたが、おそらく諸御家人からの強い圧力もあったのだろう。18日、頼家の命を受けた和田義盛、三浦義村によって御家人としての地位を召し放たれ、鎌倉を追放された。六浦道沿い梶原谷の梶原邸は即日解体され、永福寺僧坊の用材として下げ渡された。 鎌倉を追放された景時は、仲の良かった甲斐源氏の武田左兵衛尉有義を新たな将軍に擁立し、もともと平家党の多い九州の豪族を語らって幕府に対して謀反を企てたようである。正治2(1200)年1月20日、上洛を企てた梶原景時一党は、駿河国狐崎(静岡市清水区平川地)において吉香小次郎友兼、渋川次郎、矢部平次、矢部小次郎、船越三郎、大内小次郎らに取り囲まれ、一族悉く討死を遂げた。 ●正治2(1200)年1月20日条(『吾妻鏡』)
梶原景時一党が駿河で討たれた日から三日後の1月23日、義村の父・三浦介義澄が七十四歳の生涯を閉じた。
頼朝亡きあと、まだ若い将軍・頼家の母堂である北条政子の政治的な影響力が強まることとなった。そして、景時を討ってわずか2か月後の4月、北条政子の父・北条時政はこれまで源氏一門にしか許されていなかった受領を許され「遠江守」に任官した。このように北条氏の影響力が強まっていく中で、北条氏と有力御家人との間で軋轢が生じ始めた。まず対立が起こったのは、将軍頼家の妾(若狭局)の父・比企左衛門尉能員との勢力争いである。しかし、表面上は穏やかに過ぎていった。 建仁3(1203)年8月25日、将軍頼家は、突然の病に倒れ、危篤状態となった。このとき頼家の長男・一幡が比企氏に護られており、北条氏にとっては由々しき事態であった。北条時政はいち早く対応し、二日後の27日には全国の将軍管轄の地頭職を二分し、関西三十八か国を千幡(のちの実朝)に、関東二十八か国を一幡に管轄する旨を将軍の命として発した。時期的にあまりにうまく行過ぎる事実に、頼家の危篤は時政の謀略があったのかもしれない。頼家はもはや死亡するものという規定路線ができあがり、京都へは頼家は病死したという報告が伝えられている。 しかし、9月2日、頼家はようやく意識を取り戻す。そこに若狭局(比企能員娘・頼家妾)が駆け寄り、頼家が意識を失っている間に起こった事件をつぶさに報告し、北条時政の追討を懇願した。頼家も自分の知らない間にこのような命が出されていたことに驚き怒り、若狭局の懇願に任せて比企能員を御所へ召して、時政一党の追討を許したのである。
比企能員が急遽御所に呼ばれたことを聞いた北条政子は、これを怪しんで御所の病室の密議を障子越しに聞き取り、ただちに女房を時政邸に走らせたが、時政は仏事のために名越邸へ向かっており、政子は大まかな内容を手紙にしたため、侍女に持たせて名越へ走らせた。侍女は御所を発し、時政の一行に走り追いつくと時政に政子の書状を奉げた。こうして時政は頼家と比企能員の陰謀を知り、ただちに能員を仏事に事寄せて名越邸に呼び出すと、天野遠景入道蓮景・仁田四郎忠常をして討ち果たした。 能員討たれるの報を聞いた能員の童僕は、あわてて比企家に戻り、能員嫡子・比企弥四郎時員に報告したのだろう。比企家は一幡を擁して比企が谷の館に立て籠った。これに北条政子は未の三刻(午後三時)、鎌倉中の御家人に比企家追討の命を発した。追討に加わったのは江間義時、三浦義村、和田義盛ら二十一名の有力御家人である。 ●『吾妻鏡』建仁3(1203)年9月2日条
―比企家籠館軍―
しかし、比企家側の抵抗は激しく、加藤景廉、尾藤知景、和田景長は負傷。郎党も傷を被って軍勢を引き上げている。彼らに代わって畠山重忠が攻め込み、笠原親景の軍勢を破ると、親景は比企邸に駆け込んで放火。引き上げてきた河原田次郎、中山為重らは一幡の御前にて自刃して果てた。火は比企邸を押しつつみ、一幡も猛火の中に消えた。女姿となって逃れ出ていた能員の子・余一兵衛は加藤景廉の郎党に捕らえられて殺害され、夜になって能員の舅・渋川刑部丞兼忠も誅殺され、北条家と肩を並べた大御家人・比企一族は一日にして歴史から姿を消したのであった。
9月5日、頼家は病が小康状態となるが、比企一族および一幡が北条時政によって討たれたことを聞いて、彼の北条家に対する恨みは頂点に達し、時政を誅殺するべく、堀藤次親家を使者として、内密に和田義盛と仁田忠常に時政の殺害を命じた。この手紙を受取った和田義盛は、すでに頼家を見捨てていたのか、この書状をこともあろうに時政に献じた。これを見た時政は怒り、堀親家を捕らえて工藤行光に殺害させてしまう。この堀親家は頼朝挙兵から北条時政とも苦楽をともにした最古参の御家人である。時政はもはや権力の亡者となっていたようである。時政はこの翌日、仁田四郎忠常をも殺害している。 9月7日、北条家を排除することに失敗した将軍・頼家は病気を理由に落飾させられ、10日、頼家の弟・千幡が新たな鎌倉殿と内定。千幡は御所から北条時政邸に移った。乳母で叔母(政子の妹)の阿波局が彼に随い、江間太郎頼時・三浦義村が千幡の輿を守って進んだ。しかし15日、時政の愛妾・牧の方が千幡に対して害心を抱いていると阿波局より聞いた尼御台北条政子は、北条義時・三浦義村・結城朝光を時政邸に遣わして千幡を御所に迎えとった。こののち千幡は征夷大将軍に任じられた。一方、頼家は名実ともに権力を喪い、29日、伊豆国田方郡修善寺へ押し込められた。 11月6日、頼家は修善寺から政子と実朝へ宛てて、ここでは召し使う者もないため、日頃の近習の参入を許してほしいと嘆願状を送ってきた。しかし政子は認めず、さらに今後は手紙を鎌倉に遣わすことを禁じる旨を、義村を通じて修善寺に申し遣わした。ただ、政子はさすがに我が子である頼家を心配しており、4日後、義村が修善寺から帰参して報告を聞くと悲しんだという。 11月15日、鎌倉中の寺社奉行が定められ、 義村は畠山重忠・三善康清とともに永福寺奉行を拝した。
建仁2(1202)年8月23日、頼朝と父・義澄の遺命を奉じ、娘(のちの矢部禅尼)を江間小四郎義時の嫡男・江間太郎頼時(のちの泰時)に娶わせた。翌建仁3(1203)年、嫡男・北条時氏が誕生している。 建仁3(1203)年8月4日、土佐国守護職を拝命した。二年前には豊島右馬允が守護職であり、彼の後任の守護である。 元久2(1205)年6月の畠山重忠追討劇に際しては、内心この追討に反対だった江間相模守義時の軍勢に弟の九郎胤義とともに加わり、6月20日、二俣川の戦いで重忠を討った。畠山次郎重忠は武士の鑑と謳われた清廉潔白な人物として知られ、御家人の間でも人気が高かった。これを討った背景には、義時の父・北条時政が、愛妾・牧の方の訴えを聞いたことによる結果だった。 ○畠山重忠追討軍
大将軍:北条相模守義時・北条式部丞時房・和田左衛門尉義盛
23日、義時は重忠の首を持って鎌倉に帰参した。幕府で北条時政は義時に戦場のことを尋ねると、義時は、重忠が率いていた兵はわずかに百騎あまりで謀反の企ては虚報であったこと、讒訴によって殺されたことははなはだ残念なことだと時政を暗に詰り、重忠の首を見て悲涙を禁じ難いと言い放った。時政は言う事がなかったという。 三浦党は二十年の昔、治承4(1180)年、平家に加担していた畠山重忠ら秩父党に本拠地・三浦衣笠城を攻められ義村の祖父・三浦大介義明が討たれた。頼朝はこの三浦党と秩父党の遺恨を気にしており、三浦党は秩父党に遺恨を持たないよう命じている。しかし今回の畠山重忠の謀反劇について、北条時政は義村の遺恨を利用した様子がうかがわれ、義村に畠山重忠の嫡子・畠山六郎重保の謀殺を命じている。 二俣川から帰還した義村は、数時間後の午後六時ごろ、手勢を率いて経師谷口に榛谷四郎重朝・太郎重季・次郎秀重父子を討ち取っているが、これは義時の命を受けたものか。 ◎畠山・小山田氏略系図◎ 足立遠元―――娘 畠山重忠の殺害によって御家人の反発を買った北条時政と牧ノ方は、現将軍・実朝を殺害して、京都の平賀朝雅(牧の方の娘婿)を新たな将軍として迎えるという計画を立てる。閏7月19日、この計画を伝え聞いた尼御台は、時政邸の実朝を救うため、義村にその救出を命じた。義村は弟の九郎胤義や長沼五郎宗政、結城七郎朝光、天野六郎政景らとともに時政邸に乗り込むと、実力で実朝を奪還。義時邸に移した。こうして時政、牧の方のクーデター計画は瓦解。時政・牧の方は、子の義時や尼御台によって伊豆国修善寺に追放され、二度と鎌倉に戻ってくることはなかった。 建永元(1206)年10月20日、前将軍頼家の子・善哉を将軍・実朝の猶子と定め、はじめて御所に入った。このとき善哉七歳。乳母夫の三浦義村が賜物を献じた。 承元3(1209)年12月15日、実朝は鎌倉近国の守護補任の御下文を確認するためか、下総国守護・千葉介成胤、相模国守護・三浦義村、下野国守護・小山左衛門尉朝政に対して補任状の持参を命じた。義村は「祖父義明、天治以来、依相交相摸国雑事、同御時、検断事、同可致沙汰之旨、義澄承之訖之由申之」と天治年間(1124〜1125)以来、相模国の在庁を務め、義澄は頼朝から相模国の検断を沙汰すべきことが命じられたことを披露した。
承元4(1210)年6月2日、相模国西部の丸子川において、土肥・小早川の一党と松田・河村の一党が喧嘩し、両家の郎従が疵をこうむった。その後、お互いに砦に籠もって対決するほどにまで大事になってしまった。これを鎮めるため、侍所別当の和田義盛、相模国守護の義村が幕命を受けて両家を宥め、翌3日帰参した。この喧嘩の原因は非常に些細なもので、両家の郎従が納涼のため出会って雑談していたとき、先祖の武功について勝劣を論じ、ともに激昂して起こったものだった。実朝は報告を受けると、雑色を土肥・松田の両家に遣わし、今後このようなことが起これば御家人の号を剥奪する旨を申し渡した。 9月20日、近江国から佐々木左衛門尉広綱が献上した馬一匹が御所に届いた。実朝はこれを賞玩したのち、義村に預けた。義村は父・義澄以来、御所の御厩奉行を務めており、承元5(1211)年5月19日、信濃国小笠原の官牧の牧士と、奉行人である義村が派遣していた代官が喧嘩を起こしたことに沙汰が下った。牧士のような身分の低い者に対して、代官は奉行と称してほしいままに振舞っていることが多く、ややもすれば喧嘩におよび、公平な立場であるべき姿を忘れているとして、義村の御厩奉行職を召し上げることが決定した。代わって義村の従弟・佐原太郎兵衛尉景連が御厩奉行とされた。 建暦元(1211)年9月15日、義村の妻が乳母を務める善哉(頼家の庶子)が鶴岡八幡宮寺別当・定暁僧都の弟子となった。法号は頼暁。師の定暁僧都は二位尼(平清盛妻)の弟・平大納言時忠の一門で、翌22日、頼暁は登壇受戒のため、定暁僧都に付き添われて上洛。実朝は猶子である頼暁のために、扈従の侍として五人差し遣わしている。この頼暁がのちの別当・公暁である。
建暦2(1212)年2月28日、相模川にかかる橋(茅ヶ崎市下町屋1丁目)が数箇所、腐って落ちていた。駿河国守護職である義村は、この橋を修理すべきことを言上したため、江間義時、大江広元、三善善信入道が御所に集まり対応を協議した。じつはこの橋は建久9(1199)年に稲毛重成入道が亡妻(北条政子の妹)の供養のために建造したもので、頼朝も義妹の供養ということで出席した。しかし、この帰途、頼朝は落馬してしばらくののちに亡くなった。また、重成入道も元久2(1205)年に戦乱に討死しており、義時、広元、善信入道らはこの橋に関わることは不吉であると実朝に言上したが、実朝は、故将軍は官位を極めたのちの事故、重成は自らの不義が招いた不幸であって、まったく橋建立には関わりのないことであり、橋があれば庶民は通行に不自由することもなくなるので早く修理をするよう命じた。ここでも三浦氏の守護としての役割をうかがうことができる。
建暦3(1213)年2月15日、鎌倉を揺るがす事件が起こった。幕府転覆の計画の発覚である。事の始まりは、とある僧侶(阿静坊安念)が千葉介成胤の甘縄屋敷を訪れ、彼に 謀叛の協力を求めたことだった。僧侶は信濃国の青栗七郎の弟で、現将軍・実朝を廃して故頼家将軍の遺児・千寿(尾張中務丞養子)を新将軍に擁する計画だったが、成胤が被官・粟飯原次郎に僧侶の捕縛を命じて義時邸に引っ立てたことで明るみに出た。義時はただちに子細を実朝に言上した上で、大江広元と相談。二階堂山城判官行村に下げ渡された。 翌16日、侍所にて安念は拷問を受けたと思われるが、謀叛の計画に加わった人々の名を白状。幕府はただちに彼らの捕縛を開始した。 この逮捕された中に、和田左衛門尉義盛の子(和田義直、義重)や甥(和田胤長)が含まれていたことに幕府は動揺。3月8日には、この事件を聞きつけて各地の御家人が鎌倉に殺到していた。また、事件が起こった当時、和田義盛は所領の上総国伊北庄(千葉県夷隅郡)にあり、事件を聞いてあわてて鎌倉にのぼり、この日御所に参上して実朝と対面。実朝は義直・義重については父の義盛の勲功によって赦免したが、甥の胤長については赦さなかった。 翌9日、義盛は一族九十八人を引率して御所に参上。南庭に列座し、大江広元を通じて胤長の赦免を願った。しかし、胤長は今度の乱の張本人であることから実朝も許さず、北条義時の口から「重く禁遏を加えるべし」との実朝の言葉が伝えられた。そして、義盛らが列座して見ている中、縛られた胤長が曳き出され、侍所の金窪行親、安東忠家の手から行村に引き渡された。目の前で一族の者が恥をかかされた形になった義盛は怒りに震えた。同時に北条義時への対抗心が強烈に燃え上がったと思われる。さらに胤長の旧宅も義時によって接収され、5月2日、義盛はついに義時を討つために挙兵した。 この挙兵に際し、義盛は従兄弟である三浦義村・胤義に対して、義時追罰の挙兵に際しては味方についてくれるように頼んでいる。これに義村らも義盛に誓詞を差し出して、御所の北門を守護する約束をした。しかし、義村・胤義兄弟はいったんは義盛に同心したものの、曩祖・三浦平太郎為継以来の主、源家に弓引くことはできないと、北条義時に義盛挙兵の報を伝えた。 申の刻(午後4時ごろ)、和田義盛は兵を率いて御所に攻め寄せた。その中には幕府草創期の有力御家人の子孫たちが多く含まれていた。北条氏の力が大きくなるにつれて、有力御家人たちは力を失い、北条氏に対する反抗心を生んだのだろう。 ●和田義盛の挙兵に同心した御家人
和田義盛の軍百五十騎は三手に分かれ、幕府の南門、義時の小町邸の西門・北門を取り囲んだ。さらに横大路にも進軍して大江広元邸にも矢を射掛け、大江邸は大混乱に陥った。このとき御所南西の政所の前に波多野中務丞忠綱が攻めかけ、これに三浦義村が馳せ加わった。 しかし、和田勢の勢いはすさまじく、ついに幕府は東西南北の門をすべて囲まれ、北条修理亮泰時・次郎朝時兄弟、足利上総三郎義氏が防戦に努めた。しかし、和田義盛三男・朝夷名三郎義秀が惣門を攻め破って幕府の南庭に乱入し、守衛の御家人を攻め立て、御所は兵火によって灰燼となった。このため、実朝は義時、広元とともに頼朝の法華堂に避難した。 幕府を占拠した義秀は「既に以って神のごとし」というほど暴れまわり、五十嵐小豊次、葛貫三郎盛重、新野左近将監景直、礼羽蓮乗ら手向かった御家人はすべて討たれるほどだった。さらに従兄弟の高井三郎兵衛尉重茂との戦いでは、互いに馬を寄せて弓を捨て、力で雌雄を決しようと組み合い、激戦の末に重茂の首を取った。 三浦大介義明―+―杉本義宗―+―和田義盛―+―和田常盛―――和田朝盛
さらに北条義時の次男・相模次郎朝時に傷を負わせ、政所前の筋違橋では足利上総三郎義氏と馬合わせ太刀合わせを繰り広げ、敵味方から賞賛の拍手を浴びる。和田義盛自身も憤怒を身にまとい、夜になっても戦いは続いた。ここで北条方を支えていたのが義時の嫡子・泰時であった。明け方になってようやく和田方に疲れが見え始め、義盛は兵をまとめていったん由比ガ浜に引いた。その隙に泰時は手勢を率いて若宮大路を駆け抜け、中下馬橋に陣を取った。 翌3日、曾我、中村、二宮、河村氏といった相模国の有力者が実朝の御教書によって御所方となり、さらに千葉介成胤が精兵を率いて御所方に参着。義盛は横山時兼ら横山党の援軍を受けて御所を再び攻めようと若宮大路を進むが、すでに北条泰時・北条時房の手勢によって固められており、各道も御所方によってすでに防備されていた。 一方、義盛の与党、土屋義清、古郡保忠、土肥惟平の三騎は奮戦して御所方をたびたび敗走させ、北条泰時を焦らせている。しかし、土屋義清が流れ矢に当たって戦死すると、次第に形勢は御所方有利に動き始めた。 義盛も疲労困憊の中、この囲みを突破し、ついに御所前の横大路にまで攻め至った。しかし、ここに義村の軍勢が後ろから攻め至り、酉の刻(午後六時ごろ)、義盛鍾愛の四男・金窪四郎左衛門尉義直が戦死。義盛は義盛の戦死を聞くと大声で泣き叫び、もはやこれまでと御所方に突撃。江戸左衛門尉能範の郎従に討ち取られた。六十七歳。続けて、五郎兵衛尉義重、六郎兵衛尉義信、七郎秀盛らも討ち取られた。大力の朝夷名義秀は手勢五百騎を兵船六艘に分乗させて安房国に逃走した。おそらく義秀は安房国朝夷郡内に所領を得ていたと思われる。 戦いが終わり、夕闇の迫る中、義時は金窪兵衛尉行親・安藤次郎忠家両名を由比ガ浜に派遣して、義盛たち戦死者の首実検をした。
5月4日、実朝は法華堂から尼御台の東御所に入った。その後、御所南庭にて論功が行われた。このとき、波多野中務丞忠綱が米町・政所前の合戦で先陣を切ったと申告したが、三浦義村は政所前の戦いでは自分が先頭であると論争となってしまった。これを見た北条義時は、あとで忠綱を誰もいない場所に招くと、 「今度世上無為の条、偏に義村の忠節に依る、然らば米町合戦にて先登の事、異論なきの上は、政所前の事、彼の金吾に対し相論時儀に叶ひ難きか、穏便を存ぜば、不次の賞行われんこと、その疑いなし」 と説得した。しかし忠綱は、 「勇士の戦場に向かうは先登を以って本意となす、忠綱いやしくも家業を継ぎ、弓馬に携わり、何箇度と雖も、盍ぞ先登に進まざらんや、一旦の賞に耽り、萬代の名を黷すべからず」 と譲らなかった。義時もこの正論には言葉もなく、実朝に報告したのだろう。実朝は真偽を質すため、忠綱と義村を御所の御壷に召して、義時、広元、二階堂行光らが同席の中、義村がまず召され、続いて忠綱が入り、両人は簣子の円座に座り、対決した。義村は、 「義盛来襲の最前、義村、政所の前に馳せ向かい、南に於て箭を発すの時、微塵と雖もその前に飛び行かず」 と、主張した。しかし忠綱は、 「忠綱一人先登を進む、義村は忠綱子息の経朝、朝定等を隔てて後陣に在り、しかるに忠綱を見ずの由申す、盲目たらんか」 と反論。このため、この戦いに参加していた皇后宮少進、山城判官次郎、金子太郎が参考人として呼ばれ、尋ねられた。彼等は、 「赤皮威鎧に葦毛の馬に駕す軍士が先登」 と言上した。この日、忠綱が赤糸威鎧を着しており、葦毛の馬は義時より拝領の「片洲」と号する馬であり、忠綱が先登だったことが判明。義村の言は退けられた。義村はひどく面目を失ったと思われる。 5月7日、和田合戦の勲功について行賞がなされた。このとき、波多野忠綱は先頭を切って和田勢に斬り込んだことは無双の軍忠と賞された。しかし、実朝御前の義村との対論の際に義村に悪口を浴びせて面目を失わせたことは罪科であり、今回の勲功と相殺する旨が出された。そして、義村は陸奥国名取郡の地頭職を得た。本来であれば、偽証した義村は罪が問われてしかるべきところ地頭職が与えられ、却って正直に答えた忠綱が「無双の軍忠」という言葉と裏腹に実質的な懲罰に処されている。義盛挙兵の一報をいち早く義時に伝えたのは義村であり、義村への行賞は義時の政治的な配慮がうかがわれる。また、義村は義時嫡子・泰時の義父にもあたり、三浦一族という強大な御家人を北条家に繋ぎ止めておくための「恩」を与えたとも考えることができる。 ●和田合戦の論功行賞
8月20日、将軍・実朝は焼けた大蔵御所跡に新しく建造された御所に移ることとなり、大江広元の屋敷より御所に入った。随兵の筆頭に三浦義村が見える。 ●新御所入御の供奉
9月12日、幕府において駒の披露会が御厩奉行の三浦義村が奉行して執り行われた。この披露会は一般民衆にも公開されたようで、千人もの群集が押し寄せたという。 12月28日夜、御所において義時鍾愛の四男(母は伊賀朝光娘)の元服の儀が執り行われた。このときこの若公は九歳。義村が烏帽子親に定められて冠を授け、「村」の一字を与えて「四郎政村」と名乗らせた。のちに七代執権となり、八代執権・北条相模守時宗を支えた北条左京権大夫政村である。ここでも義時は義村に好意を見せ、三浦党を北条家に引き付けておこうとしたのだろう。 建保5(1217)年6月20日、園城寺より阿闍梨となった公暁(頼家子・実朝猶子。頼暁改め)が鎌倉に下向した。はじめ「頼暁」と号していたが、明王院僧正公胤の門弟となって「公」字を下されて「公暁」と改めて修行していた。下向した公暁は、祖母の尼御台の命により、鶴岡八幡宮寺別当職に補せられた。この公暁の乳母夫が義村である。 建保6(1218)年7月8日、左大将・実朝の御直衣始の儀が執り行われ、随兵は二列とされ、義村は長江四郎明義と並ぶこととなったが、幕府は義村を上座の左席とし、明義を右席と定めた。しかし義村は、明義が高齢であって先輩であるから彼を右にすることはできないと言上した。しかし、明義は義村は左衛門尉という官位を持つ人物であり、三浦介義澄の遺跡を継承した高名な人物であるから、彼を左席のままとするよう言上。この譲り合いで数刻費やされた。実朝はこれを聞くと、義村はまだ若く今後がある。しかし明義はすでに年老いており、彼を左に置く事で子孫への誉れとすることとした。 7月22日、侍所司五人が定められ、別当に北条式部太夫泰時が任じられた。二階堂山城判官行村、三浦左衛門尉義村には御家人の事を奉行することとされ、大江判官能範には御所中の雑事について、伊賀次郎兵衛尉光宗には供奉の諸役について任されることとなる。
しかし、義村にとって悪い事件が起こった。9月、鶴岡八幡宮寺に狼藉者が進入したのだ。この事件の犯人は三浦義村の子息・三浦駒若丸(三浦光村)であったという報告が御所になされ、14日、義時は金窪兵衛尉行親を使者として三浦義村邸に派遣して糾した。このため、駒若丸は出仕を停止させられた。 このころの元旦、幕府に御家人たちが集まったときのことである。義村が御家人たちの最上座に座った。将軍家の家族的な立場である北条氏を除いて、三浦氏は千葉氏と並ぶ強大な権威を持っており、当然の行為であった。しかし、そのあとに十二歳の千葉介胤綱が広間に参上したが、彼は義村よりもさらに上座に座った。これに義村は怒りを含んで、「下総犬は臥所を知らぬぞよ(下総犬は寝る場所を弁えぬものだ)」と罵った。しかし胤綱も「三浦犬は友をくらふ也(三浦犬は友を食うものだ)」と言い返した。これは三浦義村が先年の和田合戦のとき、従兄の和田義盛に味方すると約束していたにもかかわらず、北条義時に寝返ったことを皮肉ったものであった。義村は何も言えなかったという(『古今著聞集』)。 1月27日、大事件が起こった。この日の夜、実朝の右大臣拝賀の式典が鶴岡八幡宮寺で執り行われ、二尺(約60センチ)ほども積もる大雪の中、午後六時ごろ御家人らを率いた実朝が宮寺に入った。そして、一行が八幡宮寺の楼門をくぐったとき、御剣役を務めていた北条義時がにわかに体調を崩したため、公家の文章博士源仲章に御剣役を譲って伊賀四郎を具し、小町邸に帰ってしまった。
義時が欠けたものの、式典はその後も滞りなく進行し、深夜に終了した。実朝は御剣役の源仲章とともに八幡宮寺神殿を出て石段を降りようと雪道を踏み出したところ、石階段の際に隠れていた別当阿闍梨公暁が抜刀して飛び出し、実朝および仲章を斬殺した。 この騒ぎを聞きつけた武田五郎信光らは、ただちに実朝のもとに駆けつけるが、すでに首を取られた亡骸が横たわっているのみで、犯人の姿は忽然と消えていた。ただ、御家人の中に、別当阿闍梨公暁が「父の敵をば討たむ」と叫んでいるのを聞いた者がおり、御家人たちは公暁の姿を捜し求めて公暁の居住する雪ノ下本坊に乱入、長尾新六定景、子息の太郎景茂、次郎胤景らが公暁の門弟僧と合戦して打ち破り、坊内を捜索したが、ここにも公暁の姿はなかった。 このとき、公暁は実朝の首を持って、後見人・備中阿闍梨の雪ノ下北谷の屋敷(鎌倉市雪ノ下2)に匿われていた。備中阿闍梨は公暁に膳を勧めるが、公暁はその間、実朝の首を離さなかったという。その後、公暁は乳母子の弥源太兵衛尉を義村の屋敷(鎌倉市雪ノ下3)に派遣し、 「今将軍の闕有り、吾専ら東関の長に当たる、早く計議を廻らすべし」 と、実朝亡きあとは自分こそが「東関の長」つまり将軍にふさわしいとして、義村にその手段を講じるよう命じてきた。なぜ公暁が義村を頼ったかといえば、義村の子・駒若丸が公暁の門弟であった関係のためだと『吾妻鏡』には記載がある。また、義村の妻が公暁の乳母であったことも関係しているだろう。
弥源太兵衛尉が退出ののち、義村は小町邸で休息中の北条義時に使者を発してこのことを伝えた。義時は怒りに震え、公暁をすぐに殺害するよう義村に下知。義村は一族を集めてその追討手段を話し合った。公暁は大変に力が強く、並みの者では容易に討つことはできないとして、義村は武勇に優れた長尾新六定景に討手を命じた。定景は雪ノ下本坊で荒僧との戦いのあと、義村邸に入っていた。 定景は黒皮威鎧を身にまとい、雑賀次郎ら郎従五人を率いて、備中阿闍梨の屋敷に向かうため、三浦屋敷の裏の山道を抜けて北谷へ向かった。するとそこに、義村からの使者を待ちきれずに三浦屋敷へ向かうため、宮寺の裏山を歩いていた公暁とばったり出くわした。おそらく山中このあたりだと思われる。定景自身が公暁に会ったことはないと思われるが、誰何して公暁と知ったのだろう。すぐに追手と察した公暁は太刀を振るって定景の討手を突破。三浦邸の塀際から中に入ろうとするところを引き摺り下ろされ、定景に討たれたようである。享年二十歳。
源為義―――+―源義朝―――源頼朝――源頼家 〜実朝後の将軍継嗣問題〜
定景は公暁の首を引っさげて三浦邸に戻り、義村が義時の小町邸にその首を持参した。義時は安東次郎忠家に蝋燭をともらせて首を見るが、同席した義時嫡子・泰時(義村の娘婿)は公暁の顔を知らず、これが本当に彼かどうかはわからないと疑念を抱いている。 孫・公暁をこよなく愛していた尼御台は、この夜のうちに公暁の伴類をことごとく捕縛して糾弾するべき命を御家人に下している。
翌28日、幕府は実朝薨去を朝廷に報告するため、加藤判官次郎景長を使者として上洛させた。辰の刻(午前八時ごろ)には実朝御台所(坊門姫)が荘厳房律師退耕行勇(栄西禅師門下)を戒師として落飾、武蔵守親広、左衛門大夫時広、前駿河守季時、秋田城介景盛、隠岐守行村、加藤大夫尉景廉ら御家人百余人が出家を遂げた。そして戌の刻(午後八時ごろ)、実朝の棺は勝長寿院の傍らに埋葬された。 2月13日、幕府政所の二階堂信濃前司行光の使者が上洛した。これは後鳥羽天皇の皇子である六条宮雅成親王、冷泉宮頼仁親王のいずれかの宮を新たな鎌倉殿として迎えたい旨を届けるためであった。この二人の皇子は、後鳥羽上皇の信頼の厚い卿ノ局(藤原兼子)と深い関わりを持った人物であった。以前に尼御台が上洛した際、尼御台はこの卿ノ局との間で、皇子を実朝の次の鎌倉殿として迎える密約を交わしたのではないだろうか。 六条宮雅成親王は、卿ノ局にとっては血縁上甥に当たる人物、一方、冷泉宮頼仁親王は彼女が養育した皇子であった。とくに冷泉宮は実朝夫人(坊門姫)の実甥にもあたり、幕府としても頼仁親王がもっとも次の将軍にふさわしいと考えていたのではないだろうか。
+―藤原季兼―――藤原季範――+―藤原範忠 北条政子 +―源頼家――――――――――――竹御所 閏2月12日、二階堂信濃前司行光が京都に 到着。雅成親王または頼仁親王の鎌倉下向を仙洞御所に奏上した。しかし、上皇からは、両名のうち一人は必ず遣わすが、いまは適当ではないとして、この奏聞を却下する。上皇は信頼していた将軍・実朝の死後、北条政子・北条義時が実質的に幕府を牛耳っていることを嫌い、宮を下しても結果として義時による傀儡となることを予感していたのかもしれない。
藤原定家 こののち、上皇は義時に対して様々な要求を始める。3月9日、上皇は近臣・藤原忠綱を使者として鎌倉に下し、実朝旧御所にて義時と面会し、実朝薨去に対する哀悼を伝えるとともに、摂津国長江庄・倉橋庄の地頭職を改めるよう院宣を下した。この両庄の地頭は、義時の愛妾・伊賀局であり、義時に対する揺さぶりであった。 3月12日、北条義時、北条時房、三浦義村、大江広元入道が御台所の御所に集まり、上皇の使者・藤原忠綱が下した院宣の条々についての対応を協議。忠綱には追って上啓する旨を返答しており、急ぎ対応をしなければ上皇の御意に背くことになってしまうことから、急ぎ協議の場を設けたものだった。そして、15日、御台所の使者として北条時房が返答のために千騎もの大軍を率いて上洛の途についた。従順な姿勢を見せつつも武力を背景として宮将軍下向を強請する義時の策もあったのだろう。 しかし、上皇は宮の下向を認めず、三浦義村もまた宮家からの降下が叶わないのであれば、頼朝の実妹(坊門姫)の血を引く左大臣・九条道家の孫(三寅)を新しい鎌倉殿と定めるべきだとして、結局、九条三寅が鎌倉にさし下されることとなる。義村が九条道家の嫡孫を推挙した理由は、もちろん頼朝家の血を受け継ぐ人物であるということもあるが、九条家との関係も考えられる。九条家は元久3(1206)年以来、土佐国を知行国とし、幡多庄に強力な地盤を築いていく。そして義村も建仁3(1203)年8月4日以来、土佐国守護職となっており、互いに交流があったのだろう。 6月、義村の嫡子・三浦太郎兵衛尉朝村や、弟の三浦平九郎左衛門尉胤義ら十二人の御家人が九条三寅を迎えるために上洛(『承久記』)。6月25日明け方、先陣を三浦朝村が、後陣を千葉介胤綱がつとめ、三寅を奉じた一行は京都を発した。この一行に朝村や胤義をはじめ、大河戸次郎、佐原次郎左衛門尉、佐原三郎左衛門尉、天野左衛門尉政景(義村義兄弟)など三浦一族・姻戚が半分を占めている。
7月14日、三寅の一行は、相模国田村(平塚市田村)に五日間逗留しており(『承久記』)、おそらく義村の「田村山庄」に入って饗応を受けていたのだろう。田村山庄は百八十メートル四方の巨大な構造で、堀も掘られていたという。 義村は関係の深い九条家出身の将軍を迎えるにあたり、九条家からも内々に三寅の事を託されていたのかもしれない。7月19日、三寅の一行は鎌倉に入った。 承久2(1220)年12月1日、三寅の着袴儀が北条家大倉亭の南面にて行われた際には、義村(「駿河守」の初見)は北条武蔵守泰時、足利武蔵前司義氏、小山左衛門尉朝政、千葉介胤綱とともに小侍に着し、その後、東面の広廂に一条中将実雅、北条右京大夫義時、北条相模守時房が伺候。義村は刀を献じ、子息の泰村・光村は鞍置の馬を献じた。 〜承久の乱〜 将軍家後嗣問題の不調は、上皇と義時との間に隙間風を吹かすこととなり、次第に両者の間はきな臭い雰囲気が流れ始める。承久3(1221)年4月に入ると、後鳥羽上皇とともに幕府に批判的だった天皇(順徳天皇)は譲位の意思を固め、4月20日、皇子・懐成親王に譲位(仲恭天皇)。4月28日、後鳥羽上皇とともに義時追討の兵をひそかに集めはじめる。そして後鳥羽上皇、順徳上皇は土御門上皇、六条宮雅成親王、冷泉宮頼仁親王を伴い御所の高陽院殿に移り、一千騎が集結した(『承久記』)。
そして5月15日、ついに後鳥羽上皇は北条義時追討の兵を挙げた。未の刻(午後二時頃)、上皇勢は高辻北京極西角に屋敷を構えて京都守護職を担当していた北条陸奥守義時の側室(伊賀局)の兄・伊賀左衛門尉光季を攻め、光季は自刃を遂げた(『百錬抄』)。ここから始まる上皇と幕府の戦いを「承久の乱」という。 後鳥羽上皇の召しに応じた者としては、公家では「坊門大納言忠信、按察使中納言光親、中御門中納言宗行、日野中納言有雅、甲斐中将範盛、一条宰相義宣、池三位光盛、刑部卿僧正長厳、二位法印尊長」、武士では「能登守秀康、三浦平九郎判官胤義、仁科次郎盛遠、佐々木弥太郎判官高重」らであったという(『承久記』)。 5月19日、光季が京都から発した飛脚が鎌倉に到着した。光季の命の言葉が認められていたのだろう。義時の娘婿で大江広元の子・大江前民部少輔親広入道が上皇に組したこと、光季は応じずに攻められるだろうということが伝えられ、続けて届いた西園寺公経家司・主税頭三善長衡(三善善信入道の親類)からの使者により、光季が討たれたこと、義時追討の院宣が全国に発せられたこと、関東御家人への院宣は本日到着しているはずであるということが伝えられた。これを聞いた義時は、さっそく鎌倉各地を捜索させ、屋敷の目と鼻の先、葛西谷山里殿で怪しい男を捕らえた。彼が持っていた院宣と御家人交名注進状は没収され、御台所に披露された。一方、上皇方に加担した三浦義村の弟・九郎左衛門尉胤義からの私信が義村のもとに届けられた。そこには、勅定によって義時を誅すること、その勲功については思うに任せる旨が認められていた。これを見た義村は使者を承引すると返事をすると、この書状を持って義時のもとに出頭し、事の次第を告げた。 胤義が上皇に加担した理由は、北条義時に対する強い恨みにあったと思われる。実は二代将軍頼家には公暁のほかにも、京都仁和寺に阿闍梨禅曉という男子がいた。彼は実朝亡きあとの継嗣問題の最中、承久元(1219)年閏2月5日に鎌倉に下向しており(『光台院御室伝』:「続群書類従」)、彼を将軍として擁立しようという勢力があったことがうかがわれる。 ●『光台院御室伝』
禅曉の母は三浦胤義の妻になっており、阿闍梨禅曉の義父が胤義ということになる。しかし、北条義時としては将軍はあくまで飾り物で、幕府を大きな政治機構、官僚機構として固める必要性を感じていたと思われる。この中に源家を崇拝する感情に基づく主従関係は邪魔になる。結局、義時は京都から頼朝の妹の血を引く遠縁の九条道家の子を将軍に迎えることで、源家に忠誠を尽くす御家人を懐柔したのだろう。そして頼朝直系の阿闍梨禅暁は、翌承久2(1220)年4月15日、京都において殺害された。 ◎阿闍梨禅暁周辺系図◎ 三浦介義澄―――+―三浦義村 禅曉が討たれたことに、義父に当たる胤義は義時をひどく恨んだという。また、以前の和田合戦で和田義盛方に祀り上げられたとされた若宮別当栄実も禅曉と同母(胤義妻)とされており、胤義は義理の息子二人を北条氏によって討たれたことになる。そして、後鳥羽上皇の北条義時追討の院宣が下ったときに京都にいた胤義は、上皇の召しに応じて京方について北条義時に反した。 5月22日、小雨の降る中、北条泰時率いる幕府先鋒軍が鎌倉を進発した。旗下の将は泰時の子、北条武蔵太郎時氏(三浦義村孫)を筆頭に、北条家の直臣を中心とした十八騎の編成。その後、北条相模守時房を大将とする東海道軍が鎌倉を進発した。 ●承久3(1221)年5月22日 鎌倉を発った東海道軍の先鋒
●承久3(1221)年5月23日 鎌倉留守居の宿老
そして5月25日までに、出兵を命じられた鎌倉の将士はすべて上洛の途についた。 ●承久3(1221)年5月25日までに出立した幕府軍大将の編成(『吾妻鏡』『承久記』)
義村は北条相模守時房、北条武蔵守泰時、足利武蔵前司義氏、千葉介胤綱らとともに「東海道大将軍」の第五陣の一員として出陣した。 ●幕府軍海道軍(『承久記』)
幕府東海道軍は5月30日遠江橋本駅、6月2日遠江国府(静岡県磐田市)に到着した。鎌倉勢が遠江国府に入った報告は、飛脚によってただちに京都に伝えられた。公卿達はただちに詮議に入り、防戦のために軍勢を出陣させることとなり、6月3日早朝、軍勢が京都を出発。4日に尾張国木曽川に布陣した。 ●承久3(1221)年6月3日出陣の後鳥羽上皇方の将士
6月5日、幕府軍は尾張国一宮(愛知県一宮市)に到着した。一宮の北をながれる木曽川の対岸には後鳥羽上皇軍が陣を張っていたため、幕府軍は軍議を開き、軍勢を分けて攻撃をしかけることとなった。そして幕府軍は木曾川の官軍を駆け散らすと、14日、京都最後の防衛線・宇治川で両軍は対峙した。北条泰時が攻めかかるも守りは堅く、日暮れ時になったためいったん退いた。三浦義村は酉の刻(午後六時ごろ)、淀で官軍に攻めかかる準備を整えている。結局、幕府軍は宇治川を攻め渡り、官軍は壊走。15日、幕府軍は京都になだれ込んだ。
戦いに敗れた藤原秀康、三浦胤義、佐々木盛綱、大江親広らも京都に帰還。後鳥羽上皇が籠もっていた四辻殿に参向して、最後の御供を仕らんとしたが、上皇はこれを拒否して追い返した。彼らは門をたたいて罵るも詮方なく立ち去った。このとき三浦胤義は、東寺は良い城郭であるからここに籠もることにしようと提案。兄の三浦義村は淀方の勢であるので、京都に入る際にはここを通ることは間違いなく、彼らと合戦して死なんと思い立ったようである。 するとその予想通り、三浦義村は佐原次郎兵衛尉盛連、佐原又太郎秀泰、天野左衛門尉景氏、堺平次郎兵衛尉常秀、小幡太郎、小幡弥平三ら三百余騎を率いて東寺の前を通りかかり、東寺に官軍の残党が籠もっていると聞いて攻めかかった。 三浦義明――+―杉本義宗――+―和田義盛
しかし、寄せ手の佐原盛連、天野景氏は日ごろから平九郎胤義とは一門ということで仲がよく、東寺に籠もっていたのが彼であると知ると、攻撃の手を緩めた。すると仔細を知らない盛連の嫡子・太郎経連は、どうして父が攻撃を控えているのか不審に思い、名乗りを上げて東寺に攻め寄せた。 これを聞いた胤義は、「さこそ公の戦と言ひながら、太郎無礼なる者かな、かげよし(時義か?)漏らすな」と怒り、「たかゐ(高井兵衛太郎時義か?)」らに命じて合戦を遂げたものの、多勢に無勢で退却した。この戦いののち、秀康らは一矢も酬いることなく北へと逃亡。胤義は東山に逃れ、嫡子・太郎兵衛(名不明)とともに自害して果てた。その後、胤義の年来の郎従・藤四郎入道が胤義、太郎兵衛の首を持って義村のもとに降伏。彼等の最後の有様を報告。義村は愛弟・胤義と甥・太郎兵衛の首を両手に抱き、泣き伏したという。
戦いは幕府軍の圧勝で終わる。次々に官軍の張本たちが逮捕され、7月2日には、院の西面として伺候していた御家人、後藤左衛門少尉基清、筑後守平有範、佐々木山城守広綱、左衛門少尉大江能範の四人が故実朝の恩を忘れて謀叛に加担した罪により斬罪に処され、梟首された。続いて、7月5日には公家の一条宰相中条信能が遠山左衛門尉景朝によって斬首された。その後も公家の処断が続き、後鳥羽上皇は隠岐国に、順徳上皇は佐渡国、土御門上皇は土佐国、将軍候補と議された六条宮雅成親王、冷泉宮頼仁親王もそれぞれ流罪とされた。また、朝廷では親幕府の公家で後鳥羽上皇に幽閉されていた西園寺公経が復帰して、権勢を振るうようになる。公経の家司・少外記三善長衡は、この承久の乱の始まりである伊賀光季の滅亡など、京都の変を鎌倉に一報した人物であり、問注所執事・三善康信入道の親族でもあるなど、公経は幕府とは深いつながりを持つ人物であった。また、公経の娘は三浦義村の土佐における知行国主・九条家に嫁いでおり、天福元(1233)年4月23日に行われた賀茂祭で、義村の三男・駿河三郎光村が供奉した際には、公経から賜った装束を用いているなど、義村とも交流を持っていたことがうかがえる(『民経記』)。
一条能保 九条良経 承久4(1222)年1月1日、義時が将軍・藤原三寅に椀飯を献じた。三寅は御所に出御、御簾を一条讃岐中将実雅が巻き上げ、人々は三寅に謁見を賜った。式ではまず源氏一門の足利武蔵前司義氏(義村孫娘聟)が錦の袋に入った太刀を献上。続いて三浦駿河前司義村が弓箭を、続いて行縢を小山左衛門尉朝長が献じた。義村は別格の足利義氏の次に将軍に謁見する栄誉を賜っていた。また、一の馬を子の駿河小太郎兵衛尉朝村・駿河三郎光村が献じている。義村は和田義盛の乱、承久の乱と、一貫して北条義時に積極的に味方をしたことで、幕府内における地位を着実に上げていったと推測される。北条義時も義村を警戒しつつも、京都の実力者・九条家や縁戚の西園寺家と深く結びつき、義時の嫡孫・時氏の祖父でもある義村と協力関係を保つことを優先したのかもしれない。 2月12日、一条実雅の妻(北条義時娘)が女児を出産した。実雅は頼朝の甥にも当たり、義父の義時、義弟の北条式部丞朝時・修理亮重時、三浦義村ら縁戚が集まってこれを祝した。この当時、義村と義時の関係は非常に良好であった。5月25日、義時は三浦半島に逍遥に出かけたときには、義村が豪華を極めたもてなしをしたという。 貞応2(1223)年1月1日の北条義時の椀飯では、義村が御剣役を務めた。以降、数年にわたり元日の椀飯の際には義村が御剣役を務めている。また、義村は相模国守護(または政務担当者)としての所役を務め、相模川の西辺の田村山庄の別邸に頻繁に帰って政務を見ている。この年も田村山庄に戻っており、4月28日夜、鎌倉に帰参して、29日、三寅に拝謁して盃酒を献じた。 10月4日には、義村の招待で北条義時が田村別庄を訪問。義時は苅田右衛門尉義季ら多くの麾下を率いて参上した。義時は二日間にわたって饗応を受け、6日に義村とともに鎌倉に帰還。そのまま御所に参上して、義時は黒駮の馬一頭を献上した。 貞応3(1224)年4月27日、将軍家父の前関白・九条道家の使者として、土佐守源国基が鎌倉に下向し、御所侍所において三寅と対面した。義時、駿河守重時、駿河前司義村らも侍所に出仕して国基と対面し、椀飯を振る舞った。国基の子・権大僧都観基は承久元(1219)年に三寅の護持僧として関東下向に随い、寛喜4(1232)年3月15日に入滅するまで三寅(頼経)のもとにあった。
清和天皇─貞純親王─源経基─源満仲─+―源頼光─源頼国─源実国─源行実─源光行─源行頼―――源国基―観基権大僧都
6月12日、これまでさしたることはなかった北条義時の脚気が急に悪化した。翌13日には危篤に陥り、午前9時ごろ卒去した。享年六十二歳。18日、義時の葬儀が執り行われ、頼朝の法華堂の東の山上に墳墓が築かれた。6月22日には義村が主催した臨時の仏事が執り行われている。 〜伊賀氏の乱〜 義時の卒去が急だったため、死の直後から後継者騒動が起こってしまうことになる。義時卒去の日、嫡男の武蔵守泰時はこのとき京都の六波羅にあって京都の政務を担当しており、義時の死を聞いた泰時が弟たちを討つために京都から鎌倉に向かっているという風説が鎌倉に流れていた。このため、義時後家の伊賀局(伊賀朝光娘)は兄弟の伊賀式部丞光宗(政所執事)らとともに、娘婿の一条実雅を将軍に、我が子・四郎政村を執権にするべく謀計を企てた。 伊賀光宗兄弟は、政村の烏帽子親で、政村を大変にかわいがっていた三浦義村を今回の謀計に加担させようと計画し、伊賀邸からは使者がひんぱんに三浦邸へ飛んでいた。そして7月5日夜、伊賀光宗兄弟は伊賀局と政村が住んでいた義時の旧宅に集まり、計画を違えずという誓詞を交わした。これをある女房が聞き、すべては聞いていないとはいえ泰時に報告した。しかし泰時は一行に動揺した気配を見せなかった。
7月17日、戦い近しの情報を聞きつけた近国の御家人の郎従が鎌倉に押しかけ、夕闇の街は殺伐とした状況となっていた。この不穏な気配を察した尼御台は、深夜に駿河局一人を供としてひそかに御所を抜けて三浦邸に駆け込んできた。急の来訪を聞いた義村はあわてて尼御台を迎えると、平伏した。 尼御台は義村に、 「奥州卒去につき、武州下向の後、人群を成し、世は静まらず、陸奥四郎政村ならびに式部丞光宗らは頻りに義村の許に出入し、密かに談ずる事有るの由の風聞、これ何事やその意を得ず、もし武州を相渡し独歩せんと欲するか、去る承久の逆乱の時、関東治運天命たりと雖も、半ば武州の功にあらんや、凡そ奥州烟塵を鎮め、干戈を戦ひ、静謐せしめをはんぬ、その跡を継ぎ、関東の棟梁たるべきは武州なり、武州無くば、諸人諍か運を久しくせんや、政村と義村とは親子の如し、何ぞ談合の疑い無きや、両人無事の様、須く諷諫を加ふ」 と説いた。これに義村は「知らず」と、談合に加わったことはないと訴えるが、尼御台はこれを退け、 「政村を扶持せしめ、濫世の企て有るべきや否や、和平の計を廻らすべきや否や、早く申し切るべし」 と強硬に義村に迫った。これにはさすがの義村も気圧され、 「陸奥四郎、全く逆心無からんか、光宗らは用意の事有り」 と、光宗たちの計画であると告げ、彼らの計画には加わらない旨を約束。尼御台はようやく三浦邸をあとにした。 7月18日、義村は鎌倉に戻っていた娘婿・泰時と対面。義時が御懇志で政村の烏帽子親となり、愚息・泰村の子・駒石丸を猶子としてくれた恩を思うと、貴殿と政村の両人の今回の事について、自分としてはどちらが正しいとは言えない。ただ思うことは世の平安である。光宗が謀略を企てていたことがあるが、義村が説得したためようやく計画をあきらめたことを告げた。泰時も政村に対して害心を持たないと返答した。 閏7月1日、三寅と尼御台は泰時邸に移り、使者を義村のもとに遣わして、すぐに参向するよう仰せ含められた。尼御台は義村に、時房、泰時とともに武州邸に一緒にあるよう命じた。結局、伊賀光宗らの計画は実現せず、将軍に議された一条実雅については京都へ護送ののち罪名を奏することとし、伊賀局および伊賀光宗らは流罪と決定した。ただ、義村ら同心の疑いがあった者については一切罪を問わないこととした。 しかし、泰時を支えていた尼御台も、いつしか病が篤くなっていた。元仁2(1225)年6月7日、夏の暑さによる疲労によって食が進まなくなったようである。そして7月6日、尼御台の治療を続けていた前権侍医和気定基もついに治療を断念。11日深夜、尼御台は六十九歳の生涯を閉じた。御家人たちの心の支えであったとともに、泰時にとっては力強い後ろ盾であった。翌12日、御台所の死が披露され、御家人をはじめ多くの男女がにわかに出家している。こののち、御所を様々な事件のあった大倉の地から他所へ移すことが議され、臨時の御所として勝長寿院門前の伊賀四郎左衛門尉朝行邸が定められた。三寅の元服についても議されたようである。 11月19日、伊賀氏の乱で越後へ流された一条実雅の旧妻(北条義時娘)が唐橋通時に嫁ぐこととなった際には、義村が唐橋家領の地頭を務めていた関係で、その婚姻の仲立ちを依頼されたという(『明月記』)。
一条実雅
12月5日、若宮大路を背に小町大路に面した宇津宮辻子御所の上棟式が行われ、北条時房、北条泰時、二階堂隠岐入道行西、義村、後藤左衛門尉基綱、外記大夫三善倫重らが参列した。そして21日、御所において時房、泰時、義村らによる評議始が執り行われた。 12月29日、御所において三寅の元服式が執り行われた。泰時、足利陸奥守義氏以下、御家人が列座した。御家人名は省略されていて義村の名は見えないが、おそらく列席していたと思われる。加冠は泰時が務め、三寅はこれ以降「頼経」と称する。 嘉禄2(1226)年1月1日、新御所でのはじめての椀飯が行われ、泰時がこれを沙汰した。義村は束帯姿で頼経の剣を捧げ持ち、次いで布衣の北条前大炊助有時が調度を掛け、行縢・沓は中条出羽前司家長が持参して頼経の後に随って西侍に出仕した。そして1月3日、義村が椀飯を進上した。 1月9日、泰時は義父・義村を屋敷に招いて饗宴が催された。泰時は義時、政子と後ろ盾を次々に失い、伊賀氏の乱のような不穏な動きもあることから、義父の義村を重用するとともに、その影響力を最大限に利用するべく、親密な関係を築いていく必要があったのだろう。 頼経の元服が済んだことで、続いては鎌倉殿として征夷大将軍の宣下を請うべく、1月8日、佐々木四郎左衛門尉信綱を使者として京都に派遣することが決定。1月10日、信綱に奏状を渡すと、信綱は早速上洛。24日、京都に着いた信綱は、まず関白・近衛家実邸を訪れて将軍宣下のことを申し上げ、叙位任官についても話をしたようである。さらに南都の春日大社まで足をのばすと、頼経の「藤原朝臣」姓を改めて「源朝臣」とするか否かを神慮に託した。これは義村が主導となって幕府に提案されたことによる。本来、「改姓」は認められないが、他姓の家に入ったときに三歳未満であった子に限っては改姓が許される場合があったという。頼経が関東に下ったのは二歳のときであり、源姓への改姓が可能だったわけである。結果としてこの改姓は認められなかったが、義村の考えとしては鎌倉殿は「源」姓であるとする執着が垣間見える。 1月27日、頼経は「正五位下」「右近衛少将」に任じられ、「征夷使大将軍」にも任ぜられた。そして13日、佐々木信綱が京都より帰参し、頼経への除書を提出した。 2月25日、下鴨社の前禰宜資綱が、兄・禰宜資頼を殺害した。このため、幕府は資綱を捕縛し、漏刻博士賀茂宣知も共謀したとして逮捕され拘禁された。殺害された鴨資頼の子・比良木禰宣が義村の親類の夫であったことにより、政治的な力で逮捕されたようである(『明月記』)。さらに3月21日には義村の強請があったか、幕府の吹挙により比々良木禰宣が父・資頼を継いで鴨神社の正禰宣に補された。
10月9日、幕府評定所において評定衆の評議が行われ、義村らが出仕して訴訟の事が議論された。このとき、尾張の御家人・民部丞泰貞と、義村の郎従・大屋中太家重が所領をめぐっての訴訟が取り上げられた。泰貞と家重は「親昵(この場合は親類の意味か)」であったという。泰貞は評定が終わるとひそかにその結果を役人に聞いた。また、義村は家重を代弁して道理を陳べ、家重もそのときに評定衆へ参じて、義村からの扶持はないことを訴えたが、結局、両者の言い分はともに認められず、相論の所領は召し上げとなった。 しかし12日、評定の時にその訴訟の関係者は評定所の近くに来ることを今後禁じることとした。これは、泰貞がひそかに評定所に近づき評定の結果を窺ったことによる「狼藉」が発覚したためで、泰貞と家重の相論の地については、しばらく家重が管理するよう命が下る。結局、義村の言い分が通った形になっている。
安貞2(1228)年4月22日、将軍頼経の江ノ島明神への社参が執り行われ、その帰途、義村の「大庭館」へ入った。この「大庭館」とは、義村の相模国守護所「田村山庄」とは別の施設と思われ、かつての大庭氏の下司館があったところなのかもしれない。頼経は翌23日の昼頃、鎌倉に帰還した。 6月22日、将軍が26日に相模川の逍遥をすることを決定。このため頼経は義村に相模川ほとり田村山庄に一泊することを伝える。しかし前日の25日になって、義村の周りに何か不吉なことがあり、軽服することになったため、この相模川逍遥は延期され、代わりに三浦半島の杜戸(三浦郡葉山町森戸)への遊興の旅となる。26日、遠笠懸、相撲などが杜戸で開催された。
7月20日、義村の服忌が終わったため、頼経を田村山庄へ迎えたい旨を披露した。義村はこの頼経招待のために、山庄を修理し、さらに頼経のための御所を新築。御所からは屋敷前の田んぼまで延びる渡り廊下が造られ、御所の日当たりの良い川に向けて広がる東側と南側の庭には色とりどりの草花が植えられ、まだ十一歳の将軍・頼経を楽しませる行き届いた趣向が採り入れられたものとなっていた。 そして23日朝、頼経は田村山庄に向けて鎌倉を出立した。あいにくの曇り空ではあったが、多くの御家人を従えての出向であった。 ●三浦義村別邸遊覧(『吾妻鏡』安貞二年七月二十三日条)
翌25日、頼経は鎌倉に帰還することとなり、義村は田村山庄をあとにする頼経に引き出物を献上。この山庄への招待は義村一世一代の名誉な出来事となった。義村はこの日は田村山庄に残り、翌26日、鎌倉に参上して御所に頼経を訪ね、無事に鎌倉に帰参したことを賀し、盃酒・椀飯を献じた。 安貞3(1229)年1月13日夜、泰時が御所の宿侍を務め、小侍に伺候した。ここに義村、藤内左衛門尉定員が顔を見せ、雑談をして過ごした。泰時の娘は義父・義村の次男・次郎泰時に嫁ぎ、その泰時娘がまもなく出産を迎えるというめでたい時期であり、義時と泰村はこのときそのことについて語り合っていたのかもしれない。 19日ごろから産気があった泰村の妻だったが、27日朝から陣痛が始まり、非常な難産の挙句、酉の刻一点(午後5時)、死産してしまった。義村や泰村も落胆したことだろう。 北条義時―――北条泰時―――――――娘 2月20日、頼家の娘・竹御所と北条泰時の妻(義村娘)が連れ立って三浦半島の三崎の津に向かった。これは義村が彼岸に合わせて来迎講(阿弥陀如来が死に行く人のもとに現れて浄土へ導く様子を演じる伎楽会)を催すためで、おそらく泰村の妻の死産につき、子の供養の意味もあったものと推測される。 翌21日夕刻、三崎の西方の海上に十余艘の船を浮かべ、走湯山の浄蓮房を導師に講が催された。夕陽が海上を照らし、荘厳な雰囲気の中で伎楽が演じられ、雅楽の音に夕闇の浪の響きがさらに幽玄さを加えていた。伎楽ののち浄蓮房より説法が行われたのち、竹御所らは三崎の島々を巡った。 翌22日、竹御所らは三崎から鎌倉へ戻ることになるが、義村はあらかじめ四男・四郎家村を杜戸に遣わして、善を尽くし美を極めた食事を献じた。彼女たちは杜戸から船に乗って和賀江港に渡ったと思われ、夕刻に小町の泰時邸に入った。 この海上の来迎講の幽玄さを聞いたか、将軍頼経も三崎で船上の管弦を行うことを義村に依頼。4月17日、頼経は時房、泰時ほか多くの御家人を伴って三崎へ向かった。義村はあらかじめ舟を三崎津に集めており、頼経らの到着と同時に船出し、管弦が催された。また、佐原三郎左衛門尉家連は船に遊女たちを伴って現れ、遊女たちの舞も華を添えた。三崎からの眺望や趣は、景勝地の中でも比類ないものであると評されている。 5月23日、時房、泰時、義村、後藤基綱、二階堂信濃民部大夫入道らは評定所において評定を行ったのち、御所に参じた。このとき、御所では将軍頼経は扇を持ってきて、彼ら宿老の中に置いた。さいころの目増の賭けで、勝った者に賜るという少年将軍のちょっとした余興であった。 9月17日、将軍頼経の病気平癒の出始めとして杜戸浦への遊覧が行われた。杜戸は鎌倉から三浦半島へいたる玄関口であり、三浦義村が奉行していたと思われる。将軍には時房、泰時ら多くの御家人が供奉し、犬追物が行われた。このとき、時房は同席していた義村に「駿河次郎、折節上洛せしこと尤も遺恨」と、義村の嫡子・泰村が同席していないことを残念に思う旨を語ると、義村は非常に喜んだという。北条家と三浦家の親密ぶりが見受けられるが、三浦家は北条家の下に位置することを北条家側が記録させたものでもあろう。
10月26日、永福寺において将軍臨席のもと、蹴鞠が催された。「寺門の内は駿河前司義村の所役なり」とされており、建仁3(1203)年以来、義村が永福寺の寺社奉行を務め続けていたことを物語る。蹴鞠ののちは、時房の子で歌人・北条資時入道真照や源式部大夫親行も伺候していたことから、和歌の会が催された。
12月4日夜から激しい雷雨が起こり、人々は恐れおののいたという。このため、10日には中原師員らを奉行として近国の一宮に奉幣の使者が立てられた。相模国には駿河守重時、武蔵国には武蔵守泰時、上野国には相模五郎時直、上総国は足利五郎長氏、そして安房国は義村がそれぞれ担当することとなり、各々神馬や剣が奉納された。また、別当には大般若経の転読が命じられた。安房国はおそらく三浦氏が守護を務めていたと思われ、安房土豪の丸氏や神余氏らは、のちに三浦氏の郎従として名を連ねている。 寛喜2(1230)年閏1月26日、院を守るべき瀧口の武者が無人であったため、幕府草創の功臣の子孫を瀧口の武者として差し進ずべき旨の院宣が下されたため、幕府は「小山、下河邊、千葉、秩父、三浦、鎌倉、宇都宮、氏家、伊東、波多野」の家の子息一人を京都へ差し下すべしとする下知状を発した。三浦家からも派遣されていると思われるものの誰が遣わされたかは伝わっていない。この年の9月10日、嫡子・泰村が大番役として上洛しており、これがこの院宣に応じたものなのかもしれない。 3月11日、駿河守重時が六波羅探題北方に任じられて上洛。26日に六波羅に入った。そして、これまで北方として赴任していた北条修理亮時氏(義村の外孫)が鎌倉に戻ることとなり、28日京都を出立して、4月11日、鎌倉に到着した。しかし、時氏は幾程なくして病気に倒れ、泰時らの必死の祈祷や看護も空しく、6月18日戌の刻(午後7時ごろ)、二十八歳の若さで亡くなった。泰時は嘉禄3(1228)年には次男の武蔵次郎時実が十六歳の若さで家人に殺害されており、泰時の男の子はすべて死に絶えてしまった。泰時は大きく落胆し、しばらくその名が見えなくなる。時氏の遺体はその日のうちに実朝建立の大慈寺傍らの山麓に埋葬された。さらに7月15日、泰時の娘で三浦泰村の妻が娘を出産したものの娘は26日に亡くなり、妻も8月4日、産後の回復が叶わず二十五歳の若さで亡くなるという悲劇が続いた。泰時、義村ともに落胆の極みにあったことと思われる。 泰時は9月18日、時氏の墳墓堂の供養に出席し、10月24日、亡き息女の百日忌の墳墓堂供養を執り行った。この当時、女性は嫁いだ家に取り込まれることはなく、女性はあくまで実家に属していた。彼女は泰村の妻であったが、北条泰時家の女性であり、墳墓堂が建立されたと思われる。 12月9日、将軍頼経と故頼家将軍の息女・竹ノ御所の婚姻の儀が執り行われ、亥の刻(午後8時ごろ)、竹ノ御所は御所に入御した。頼経十三歳、竹ノ御所二十八歳という十五歳差の年の差夫婦となる。そして、7月9日、御台所の御新車始の儀が行われ、義村邸がその場所に選ばれ、頼経がまず車で義村邸に入り、続いて御台所の車が入った。義村はこの日のために善を尽くし美を尽くした膳を献じ、舞楽を催して終日饗応を尽くした。 9月27日、名越に住む泰時の実弟・越後守朝時の屋敷に賊が乱入したという急使が評定所に飛び込んできた。泰時はこの報を聞くや、評定の最中であったにもかかわらず席を立って、名越に馳せ向かった。叔父の時房らはその後を追って馬を馳せた。しかし、朝時はこのとき他に出ていて屋敷におらず、留守の侍が賊を搦め取った報告が伝わると、泰時は郎従を名越に遣わし、自らは御所に引き返した。このとき、泰時被官の平三郎左衛門尉盛綱は泰時に、「重職を帯び給ふ身なり、縦ひ国敵たりと雖も、まず御使を以って左右を聞こし食し、御計る事有るべきか、盛綱らを差し遣はされ、防御の計を廻らせしむべし、事を問わず向かわせしめ給ふの條、不可なり、向後もし此如き儀可に於いては、ほとんど乱世の基たるべし、また世の謗りを招くべきか」と諌めたが、泰時は「申す所然るべし、但し人の世に在るは親類を思ふ故なり、眼前において兄弟殺害せらる事、あに人の謗りを招くにあらずや、その時は定めて重職の詮無きか、武道は諍か人体に依らんか、只今、越州敵に囲まれるの由これを聞き、他人は少事に処すか、兄の志の所、建暦、承久の大敵と違うべからず」と説いた。泰時はすでに父母もなく子にも先立たれ、親類、とくに兄弟愛を非常に大切にしていたのかもしれない。泰時のそばで聞いていた義村は感涙に袖をぬぐった。また平盛綱も面を伏せて敬服したという。義村は評定ののち座を立つと、御所に参じて御台所に伺候する人々にこのことを語った。これを聞いた人々は感嘆し、盛綱の諫言と泰時の陳謝のどちらが正論か相論したものの決しなかったという。 越後守朝時はのちにこのことを聞くと、子孫に至るまで泰時の子孫に対して無二の忠を抽んずることを誓う誓書を認め、一通を鶴岡八幡宮寺別当坊に納め、一通は子孫のために家に保管したという。しかしこの朝時の願いも空しく、朝時の子孫は得宗家と肩を並べる名越流北条氏として得宗家とは深く対立することになる。 貞永元(1232)年に入ると、泰時は訴訟の際の根本となる法を定めることを決し、5月14日、三善玄蕃丞康連に対して法の調査を指示した。偏った判決や濫訴が起こることなどを防ぐことが目的であった。さらに、時房、泰時も含めて訴訟を担当する評定衆の面々にも無私を徹底するため、7月10日、「政道無私」を表する起請文の連署を評定衆の人々十一人に求めた。このとき定められた法は「貞永式目(御成敗式目)」と呼ばれ、武家の法令として非常に尊重され、室町時代、江戸時代にもその精神が反映されている。
●起請文連署の評定衆十一人
天福2(1334)年3月5日、泰時の孫・太郎の元服の儀が御所において行われた。彼は泰時の嫡子・修理亮時氏の忘れ形見でこのとき十一歳。式には北条時房、北条泰時、北条朝時、北条朝直、三条前民部権少輔、中原師員、義村、中条家長、後藤基綱、結城朝光らが西侍に伺候。理髪は曽祖父の弟・時房が務めた。次いで加冠が行われたが、頼経が行ったか。同時に「経」字を賜ったと思われ、「北条弥四郎経時」を称した。義村から見れば経時は外曾孫となり、うれしさも一入だったろう。しかし、このときにはまだ幕政に参与してはいないが、経時の外祖父・安達氏の影が次第に大きくなり、三浦氏との間に深い軋轢を生むようになるが、それは後の事。
北条義時――北条泰時 文暦2(1235)年6月29日、鎌倉五大尊堂に新造の御堂について、供養が執り行われた。将軍・頼経も参詣するため御所南門から小町大路へ向かい、義村は先陣の随兵として加わっている。 ●五大堂供養供奉(『吾妻鏡』文暦二年六月二十九日条)
9月10日、長尾三郎兵衛尉光景が、たびたび勲功をなしたものの、いまだ恩賞をいただけないことを、義村と泰村、さらには恩沢奉行の後藤基綱にしきりに訴えていたが、本日評定の結果、恩賞を与えるべきことが決定。将軍より基綱に恩賞を下すよう命が下った。その所領について義村は、強盗をはたらいた九州のある御家人の所領が召し放ちとなっている旨を指摘し、頼経への上覧状にこのことを記した。しかし、御成敗式目において未断の闕所を望むべからざる事の一条があることがあり、評定衆で再度確認を行った結果、今回においては例外として認めることとした。この評決について式目に違反していることもあって人々は感心しなかったという。 嘉禎2(1236)年8月4日、若宮大路に沿った新造御所(宇津宮御所)への将軍家の移徒が行われ、泰時邸から出立した。その供奉に義村は北条一族に次いで列している。また、布衣の供奉の最末に子の「駿河次郎(泰村)」、直垂の供奉に「駿河四郎左衛門尉(三浦家村)」「駿河又太郎左衛門尉(三浦氏村)」、検非違使として「駿河大夫判官(三浦光村)」も供奉している。 ●嘉禎2(1236)年8月4日将軍新御所移徒供奉人(『吾妻鏡』)
嘉禎3(1237)年4月22日の泰時の孫・戎寿の元服式が御所で執り行われた。
北条義時――北条泰時 まず叔父に当たる安達城太郎義景と安達一族・大曾祢長泰が元服の雑具を持参し、義村が理髪を務め、将軍頼経の手により加冠を果たした。名は「時頼」とされたが、この「時」は兄・経時の一字、「頼」は将軍・頼経の一字であろう。 6月1日、義村の娘で佐原遠江前司盛連の妻になっていた矢部禅尼(禅阿)に和泉国吉井郷を知行すべき旨の御下文を発給した。経時は時頼に書状を持たせて三浦郡矢部郷の禅尼が閑居する別荘に遣わした。矢部禅尼ははじめ北条時氏に嫁いでいたが、その後、佐原盛連に再嫁していた。経時や時頼には祖母に当たる人物で時頼は矢部尼の言葉を伝えた。 8月15日、鶴岡八幡宮寺では恒例の放生会が執り行われた。このとき将軍家の供奉として直垂を着て帯剣する六位の御家人十五人が宮寺の階間の西に伺候していたが、おそらく将軍の傍近くにいた義村が周りをもはばからず、 「御出の間の帯剣の輩は、承久元年正月、宮寺に於いて事あるにより、この儀始めらる。これ近々に候じ、守護奉るべきの故なり。而に今日、その役人の内、勇敢の類少なし、子共を進めるべし」 と、発言。泰村、家村、資村、胤村らの衣装を直垂に改めさせて、帯剣の列に加えさせた。頼経は義村が守り立てていた将軍であったがための心配だったのかもしれないが、すでに決定していた供奉の列に俄に変更を加えた義村の行為は、「傍若無人沙汰」と評され、人々は驚愕したという。 嘉禎4(1238)年は将軍家の上洛が予定されていた。1月28日、多数の御家人を率いた頼経は鎌倉を出立。2月17日、父・義村の手勢を先陣として入洛、六波羅探題の御所に入御した。 ●義村家子三十六人(三騎ごとに並ぶ ■:三浦一族 ■:千葉一族 ■:安房衆 ■:相模衆)
これに続いて義村が郎従二人を率いて騎乗で列し、御家人二百騎あまりがあとに従った。このときの義村の家子を見ると、子や孫のほか、守護国の安房御家人・安西氏、神余氏、丸氏、相模御家人の長尾氏、平塚氏などが主だった被官だったことがうかがわれる。 義村はこの上洛で将軍家先陣という名誉の役を飾る。おそらくこのとき義村は八十歳を越える年齢だったと推測されるが、いまだ馬を乗りこなすほどの矍鑠とした老人だったのだろう。しかし、3月30日、義村と同じく頼朝子飼いの老将・小山下野守朝政入道生西が八十一歳の大往生を遂げる。朝政は弟・結城上野介朝光入道日阿と生涯仲がよく、先だってともに東大寺において受戒していた。義村も彼の死を聞いて、何か考えたのかもしれない。朝政が亡くなって数日後の4月2日、三浦若狭守泰村と二階堂出羽前司行義が頼経の命によって新たに評定衆に加えられているが、彼らは評定衆・三浦義村と二階堂行村入道行西の子息である。義村はすでに八十代、行村入道は八十五歳という高齢であり、朝政の死と自分たちの後継について語り合い、六波羅の頼経のもとに参じて、それぞれ子息を評定衆に加えてもらえるよう内々に話をしたのかもしれない。 ●嘉禎4(1238)年現在の評定衆
6月5日、将軍頼経が氏神・春日社参詣を行い、ここでも義村が先陣を務めた。 まず義村の随兵六騎が先頭をつとめ、先陣の大将・義村が続いた。続いて頼経の随兵として三十騎が続くが、その一番の先頭を切ったのが義村の三男・三浦河内守光村であった。
この春日社参詣では、義村が自分の手勢で春日山を守ったという(『玉葉』)。義村の影響力の大きさを物語る逸話である。翌6日、頼経は春日社参詣を終えて京都六波羅に帰還した。 頼経は9か月半にわたる在京を終え、10月13日、京都を出立。10月29日、鎌倉に帰還した。義村はこの上洛ののち、体調がおもわしくなかったのかあまり姿を見せなくなる。評定衆としての勤めは果たしているものの、主だった役割は泰村に譲っていたようである。 12月28日、北条時房、北条泰時、北条朝時、北条政村、北条重時、足利泰氏、三浦義村、毛利季光入道、長井泰秀、安達義景らが頼朝の法華堂、二位家(北条政子)の法華堂、北条義時の法華堂の参詣をしているが、これを最後に義村の姿は『吾妻鏡』から見えなくなり、翌年の延応元(1239)年12月5日酉の刻、義村は脳卒中により急死した。没年齢不詳だが、おそらく八十代後半の大往生だったと推測される。 訃報を聞いた泰時は三浦邸に馳せ参じ、聟の泰村ら義村の子たちに哀悼の意を表した。また、将軍頼経も左馬助光時を遣わしてその死を悼んだ。奥州征討に参戦した頼朝子飼の重鎮も、結城上野介朝光ら残り少なくなり、幕府の世代交代の波は、北条得宗家を中心とした独裁政権に一気に加速していくことになる。 そして、義村の死から約一月半後の延応2(1240)年1月24日、幕府の屋台骨を支えていた重鎮・北条修理権大夫時房が六十六歳で急死した。脳卒中と推測されている。義村、時房という幕府でもっとも力を持っていた二人が急逝したことで、巷では昨年2月22日に隠岐国の配所で崩御した後鳥羽上皇の祟りだと噂した。 ●三浦・北条氏関係図●
●三浦義明――三浦義澄 +――――――三浦泰村
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