北辰一刀流 千葉家

 

北辰一刀流 千葉家

 江戸時代末期、江戸三大道場の一家に数えられた玄武館は、陸奥国気仙郡今泉村出身の千葉一族・千葉周作成政を創始者とする北辰一刀流の道場である。しかし、千葉周作自身の出自については、周作自身が語らなかったこともあり、様々な説がある。これを総合的かつ詳細に検証した佐藤訓雄氏『剣豪千葉周作』(宝文堂)によって、周作にまつわる「謎」が比較検討され、出生地や父親の謎は解明された。そのほか、各地に残る千葉周作の出自・伝承を調査した島津兼治氏宮川禎一氏の研究、原典に当たって歴史の掘り起こしをされているあさくらゆう氏の研究、その他の史料もあわせて検証する。

●北辰一刀流千葉周作家(想像略譜)

               +=千葉周作   +―塚越成道―――塚越成直――+―塚越成男
               |(荒谷村千葉家)|(又右衛門) (又右衛門) |(鉾五郎?)
               |        |              |
               |        |              +―塚越至
               |        |              |
               |        |              |
               |        |              +―塚越三治
               |        |
               |        |【北辰一刀流】
 千葉忠胤=?=千葉成勝―――+?=千葉成胤――+―千葉成政―+―千葉孝胤――――千葉一弥太
(平右衛門) (幸右衛門)    (忠左衛門) |(周作)  |(奇蘇太郎)
                        |      |
                        |      +―きん    +―千葉之胤―――千葉栄一郎
                        |      |(嫁芦田氏) |(周之介)
                        |      |       |
                        |      +―千葉成之――+―千葉鉄之助
                        |      |(栄次郎)   
                        |      |
                        |      +―千葉光胤――+―千葉勝太郎―――千葉和
                        |      |(道三郎)  |
                        |      |       |
                        |      +―千葉政胤  +―千葉次彦
                        |       (多門四郎)
                        |
                        +―千葉政道―+―千葉一胤――+―繁
                         (定吉)  |(重太郎)  | ∥
                               |       | ∥
                               +―梅尾    +=千葉束
                               |       |(喜多六蔵二男)
                               |       |
                               +―さな    +―寅
                               | ∥     | ∥
                               | ∥     | ∥
                               | 山口菊次郎 +=千葉清光
                               |       |(東一郎)
                               |       |
                               +―りき    +―震(しの子)
                               | ∥     | ∥
                               | ∥     | ∥
                               | 清水小十郎 | 江都一郎
                               |       |
                               +―きく    +―千葉正
                               | ∥
                               | ∥
                               | 岩本惣兵衛
                               |(大伝馬町旅店)
                               |
                               +―はま
                                 ∥
                                 ∥
                                 熊木庄之助


                              
             

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千葉常成(????-????)

 千葉氏の末裔。通称は吉之丞。北辰夢想流の開祖と伝わる。

●北辰夢想流の開祖?

 北辰夢想流の相伝書に拠れば、北辰夢想流開祖はもともと迚村雨一流の剣士「君前」での「同門同流」の山上角之進に敗れた。彼は「生良馬家」ながら山上角之進に打ち負けたことは「武門恥辱」と、「穢家名」したことを大いに恥じ、「妙現神社」に参詣して、自らの武術の上達を祈願した。するとある夜、神から剣法の秘訣を授けられた夢を見て、その後、急に剣術に磨きがかかったことから、北辰妙見から授けられた秘法であるとして、北辰夢想流と名づけたという。このとき、吉之丞は和歌を詠んで喜びを表現し、北辰夢想流相伝書に認めている (『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏、『秘伝』島津兼治氏)

何廉に 心のやみの雲はれて てらされ給ふ千葉の星月  (『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏、『秘伝』島津兼治氏)

 ところが、この相伝書の記述も取り入れている『千葉周作遺稿』によれば、「吉之丞といふ人は相馬中村の藩士であつた。ある時、君前で同じ藩士の上山角之進と剣法の技を闘はして敗れたことがあった、それがため吉之丞はそれを大いに恥ぢて発奮し、相馬の妙見宮に参篭して、熱心に武術の上達を祈願した。…神霊に剣法の秘訣を授けられた夢を見ると…急に技法がすすみひらけた…自分から命名して北辰夢想流といった。…吉之丞はその後、理由があって職をやめ、荒谷村に来て農業に従つた」と、内容の根本が変化している。

 「北辰夢想流」の目録には、山上角之進と闘って敗れた人物(北辰夢想流の開祖)については「予」「千葉某」とあるのみで「吉之丞」であるとは一切書かれていない。また、『千葉周作遺稿』にあるような下記の記述には誤りが見られる。

(1)吉之丞が相馬中村藩士であること
→「迚村雨一流」の「迚村」と「中村藩」を混同したと思われる。そして、「同門同流」を「同じ藩士」として辻褄を合わせている。
(2)吉之丞が「相馬の妙見宮」に参詣したこと
→吉之丞が「相馬中村の藩士」であることを前提に、相伝書内の「妙現神社」を「相馬の妙見宮」として辻褄を合わせている。

 中村藩の千葉氏については、相馬中村藩の藩士由緒書『衆臣家譜』にも千葉姓の記載はない。なお、中村藩では藩公・相馬家と同族姓の「千葉」「東」は藩公子のみが用いることが許され、「武石」姓も同族姓として中村藩では使用を許されず「武山」に改姓が命じられている。このことから、吉之丞が中村藩士であったということは考えにくい。

 実は、吉之丞の名は北辰夢想流の相伝者として、北辰一刀流の目録にも記載されている。千葉定吉(千葉周作弟)が安政5(1858)年正月に「坂本龍馬」へ授けた「北辰一刀流長刀兵法目録」と、安政6(1859)年11月に「伴野鈴」に授けた「北辰一刀流長刀兵法目録」(『秘伝』島津兼治氏)に確認できる。ただし、これらの目録に拠れば、北辰夢想流の開祖は「千葉平右衛門道胤」なる人物で、「千葉之介常胤 十一代」とある。「吉之丞常成」は、道胤の次に並び、北辰夢想流の二代目となっている。ただ、常胤から十一代目であれば、室町時代中期ごろとなるため、時代としては合わない。

 ただ、宝暦2(1752)年正月18日に桑折市左衛門から小田嶋幸右衛門へ与えられたと思われる北辰夢想流の目録に拠れば、「千葉吉之丞」は「妙現菩薩」から伝授を受けたことになっており(『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏、『秘伝』島津兼治氏)、北辰夢想流創設の説話と符合しており、吉之丞が北辰夢想流の開祖であったとの認識があったものか。

●『水府系纂』の「千葉周作成政」系譜(水戸彰考館蔵)

【住下総】
 千葉良胤――政胤――常行――――忠胤――――成勝――――成胤――――成政
(周之助) (二郎)(勝右衛門)(平右衛門)(幸右衛門)(忠左衛門)(周作)

●安政5(1858)年正月「北辰一刀流長刀兵法目録」(坂本龍馬への免許)

【北辰夢想流開祖】
 千葉道胤―――――常成―――良胤―――政胤――常行――――成勝――――忠胤――――成胤
(平衛門)   (吉之丞)(周之助)(二郎)(勝右衛門)(幸右衛門)(平右衛門)(忠左衛門

●安政6(1859)年11月「北辰一刀流長刀兵法目録」(伴野鈴への免許)

【北辰夢想流開祖】
 千葉道胤―――――常成―――良胤―――政胤――常行――――忠常――――成勝――――成常
(平衛門)   (吉之丞)(周之助)(二郎)(勝右衛門)(平右衛門)(幸右衛門)(忠左衛門

 文化4(1807)年8月20日、荒谷村千葉周作家の先祖の一人「平右衛門妻」が六十八歳で亡くなっているが(『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏、『秘伝』島津兼治氏)、生年は元文5(1740)年ということになる。もし、この「平右衛門」が幸右衛門の父(養父)の平右衛門忠胤のこととすると、幸右衛門と同年代となる。

 

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千葉成勝(????-????)

 陸奥国栗原郡花山村(栗原市花山)の人と伝わる。父は千葉平右衛門忠胤(『水府系纂』)千葉清右衛門(『千葉周作遺稿剣法秘訣』『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏)。通称は幸右衛門。妻は千葉吉之丞娘?

 宝暦2(1752)年正月18日、桑折市左衛門重之から北辰夢想流の目録を受けている「小田嶋幸右衛門殿」と同一人物と思われ、幸右衛門の子孫である荒谷村の千葉家に相伝された。

 彼の出自としては三説ある。

(1)花山村千葉清右衛門の二男(『千葉周作遺稿剣法秘訣』『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏)
(2)小田嶋家の子(『秘伝』島津兼治氏)
(3)千葉平右衛門忠胤の子(『水府系纂』『北辰一刀流長刀兵法目録』)

(1)花山村千葉清右衛門の二男説

 幸右衛門は栗原郡花山村(栗原市花山)の旧百目木館主・千葉家出身で、千葉能登(千葉能登猶常)の子孫・清右衛門の二男と伝わる(『千葉周作遺稿剣法秘訣』)が、百目木千葉家の系譜に幸右衛門の名はない。これは「六代清右衛門の長男、七代利兵衛胤久と三男と見られる与三郎の間に二男幸右衛門がいて秋田の藩士となったが、のち小田嶋家の姓を冒して荒谷村に入り荒谷村千葉家の養嗣子になったのであろうか、…花山村千葉家と絶交したと記されているから系図から外されたものと見られる」(『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏)との説明が佐藤訓雄氏からなされている。

 なお、百目木千葉家については、仙台藩の『代数有之御百姓書出』「十代相続百目木屋敷甚右衛門先祖 東野六郎胤頼 子千葉能登守猶常 二代千葉大和胤家 隠居名玄彦」との記載がある。千葉家屋敷の裏には千葉氏の守護神・妙見菩薩が祀られていたという。  

⇒千葉猶常――胤家――胤重――胤永――胤次――――清右衛門――+―胤久
(能登)  (大和)(大和)(大学)(清右衛門)       |(利兵衛)
                               ?        【北辰一刀流千葉周作とは別人】
                               +―幸右衛門====千葉周作
                                 ∥    
                                 ∥
                         千葉吉之丞―?―女     

(2)小田嶋家の子説

 幸右衛門は「秋田藩門閥戸村某(横手城代・戸村十太夫)」からの招きで久保田藩剣術指南役に推薦されたが、幸右衛門は生まれつき人に屈することを好まなかったため、程なくして職を辞したとという伝がある(『千葉周作遺稿剣法秘訣』)。これは、島津兼治氏が紹介されている「周作ノ父幸右衛門、秋田藩門族本村久ニヨリ剣客トナル性猪介人ヲ容シス…」という当時の採録を資料として編纂されたものと思われるが、幸右衛門はもともと出羽国の人物とされる。

 出羽国や陸奥国の北上地方には小田嶋姓が散見され、その祖は和賀氏の家臣であったという。幸右衛門もこうした小田嶋家出身の家柄だったのかもしれない。その後、北辰夢想流の目録を桑折市左衛門重之の門下となり、荒谷村に入って「千葉」を称したという。

(3)千葉平右衛門忠胤の子説

 『水府系纂』によれば、幸右衛門の父は「千葉平右衛門忠胤」とされている。千葉周作が水戸藩に召抱えられた際に藩庁に提出した系譜がもとになっている。つまり、周作家では幸右衛門の父は「平右衛門忠胤」だったと認識されていたことになる。

 周作家が系譜を提出した時期はわからないが、周作自身が水戸藩に召し出されたのは天保10(1839)年4月19日のことなので、おそらくそのあたりで系譜が提出されたか。

 「平右衛門忠胤」の名は、安政5(1858)年正月に「坂本龍馬」千葉定吉(千葉周作弟)から受けた「北辰一刀流長刀兵法目録」(『初見の坂本龍馬書状と北辰一刀流長刀兵法目録』松岡司氏)にも見られる。その約二年後の安政6(1859)年11月に「伴野鈴」が定吉から受けた「北辰一刀流長刀兵法目録」(『秘伝』「古流武術見てある記」島津兼治氏)では「平右衛門忠常」と記載されている。

 これらの目録では、「北辰夢相流開祖」とされているのは「千葉平右衛門道胤」であり、そのあとに「千葉吉之丞常成」、「千葉周之助良胤」と続いている。つまり、「千葉吉之丞」は北辰夢想流の開祖ではなく二代目ということになる。

 目録は良胤以下は『水府系纂』とほぼ同様の系譜が続く。なお、「千葉周之助良胤」『水府系纂』によれば「住下総」とあるので、『水府系纂』の記述どおりであれば、「吉之丞常成」も下総国の人物と考えられる。『北辰夢想流伝書』には開祖である「千葉某」がどこの人物で、どこで北辰夢想流を創設したのかなどの記載は一切ないため、下総国での出来事であるとしても矛盾はない。

●『水府系纂』の「千葉周作成政」系譜(彰考館所蔵)

住下総
 千葉良胤――政胤――常行――――忠胤――――成勝――――成胤――――成政
(周之助) (二郎)(勝右衛門)(平右衛門)(幸右衛門)(忠左衛門)(周作)

●安政5(1858)年正月「北辰一刀流長刀兵法目録」(坂本龍馬への免許)

【北辰夢想流開祖】
 千葉道胤―――――常成―――良胤―――政胤――常行――――成勝――――忠胤――――成胤
(平衛門)   (吉之丞)(周之助)(二郎)(勝右衛門)(幸右衛門)(平右衛門)(忠左衛門

●安政6(1859)年11月「北辰一刀流長刀兵法目録」(伴野鈴への免許)

【北辰夢想流開祖】
 千葉道胤―――――常成―――良胤―――政胤――常行――――忠常――――成勝――――成常
(平衛門)   (吉之丞)(周之助)(二郎)(勝右衛門)(平右衛門)(幸右衛門)(忠左衛門) 

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(1)説で言えば、千葉清右衛門の子・幸右衛門が秋田の小田嶋家の養子に入った後、さらに荒谷村の千葉吉之丞の養子になったということになる。幸右衛門は小田嶋姓を名乗ったまま、宝暦2(1752)年正月18日に北辰夢想流の伝授を受けたのち、小田嶋家との縁組を解消して、荒谷村千葉家に入り、千葉を称したということになる。

 同様に(3)説でも、幸右衛門の父は千葉姓の「千葉平右衛門忠胤(忠常)」であるため、いったん千葉家を離れて小田嶋家に養子に入ったのち、荒谷村千葉家へ養子に入ったことになる。また、(2)説では小田嶋家から北辰夢想流宗家の荒谷村千葉家の養子に入ったということになる。

 幸右衛門の父とされる「千葉平右衛門忠胤(忠常)」については、その由緒等は伝わっていないが、島津兼治氏の実地調査により、荒谷村千葉家墓所内に「清浄得身信女 文化卯歳八月二十日 平右衛門妻 行年六十八歳」の墓石が発見された(『秘伝』島津兼治氏)。この「平右衛門」が「千葉平右衛門忠胤」と同一人物かどうかは確認できないが、「清浄得身信女」は元文5(1750)年生まれということになり、宝暦2(1752)年正月18日に北辰夢想流の伝授を受けた幸右衛門の実母ではない。

 幸右衛門が入った当時の荒谷村千葉家の当主が千葉平右衛門ということなのか、幸右衛門が平右衛門の実子だったのかは定かではないが、幸右衛門は荒谷村千葉家を継いだようだ。千葉吉之丞が幸右衛門の娘婿になって荒谷村千葉家を継いだ(『千葉周作遺稿剣法秘訣』)という事実は確認できなかった。

 幸右衛門のその後は不明だが、幸右衛門の跡を継いだ千葉周作(北辰一刀流千葉周作とは別人)家に北辰夢想流家伝書が伝わっていたことから、北辰夢想流の宗家として生きたのだろう。

●千葉幸右衛門と千葉周作

 千葉幸右衛門は北辰一刀流創始の千葉周作の父とされる(『千葉周作遺稿剣法秘訣』)が、これは『千葉周作遺稿剣法秘訣』が初見となる。この書籍はのちの周作研究の根本となっていることから、著名な小説などはこの史料を踏襲しているという(『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏)。しかし、千葉武雄氏による「二人の千葉周作」の発見と、佐藤訓雄氏、島津兼治氏による調査検証の結果、『千葉周作遺稿剣法秘訣』幸右衛門と周作(北辰一刀流創始者)の続柄は父子ではなく、調査員の誤解から生じた誤伝であることが判明している(『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏、『秘伝』島津兼治氏)

【荒谷村千葉家】
…千葉吉之丞?――娘
         ∥
        千葉幸右衛門===千葉周作(北辰夢想流の千葉家)

 千葉幸右衛門の子(養子と思われる)・荒谷村千葉周作と、千葉忠左衛門の子・北辰一刀流千葉周作が同姓同名だったことや、忠左衛門が幸右衛門の千葉家と交流を持ったがゆえに、『千葉周作遺稿剣法秘訣』の編纂時の調査で誤って混同されてしまい、千葉周作の父は「千葉幸右衛門=千葉忠左衛門」となってしまった(『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏)。ではなぜ気仙郡気仙村の忠左衛門が、遠く離れた栗原郡荒谷村の幸右衛門を頼ったのか、その理由は不明なままである。

 千葉周作の父・忠左衛門成胤気仙郡気仙村出身であり、「小田嶋幸右衛門」と「幸右衛門成勝」が同一人物であるとすれば、忠左衛門成胤は小田嶋幸右衛門=千葉幸右衛門成勝の子または養子ということになる。

 一方、忠左衛門は「周作が四、五歳の頃、父忠左衛門に手を引かれて、荒谷村にやってきた」という口碑があり(『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏)、時期としては寛政9(1797)年頃ということになる。その際、忠左衛門は「故アリ亡命シテ荒谷ニ来リ居ル」(『東藩史稿』)とあり、たまたま荒谷村に来た亡命者の忠左衛門を養子としたということなのかもしれない。

 文化2(1805)年に亡くなったとされる(『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏)

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千葉成胤(1766-1831)

 千葉氏の末裔。通称は忠左衛門。父(養父?)は千葉幸右衛門成勝(『水府系纂』)。のち「浦山寿貞」を称し、下総国松戸宿千葉県松戸市)で医師となった。伝に拠ればもともとは「南部藩ノ医師」(『東藩史稿』)だったとされる。「浦山」は妻の実家の姓とする(『千葉周作弟子三千人の由来』稲本雨休氏著)「北辰一刀流長刀兵法目録」(『秘伝』島津兼治氏)では北辰夢想流の目録者となっている。

 陸奥国気仙郡今泉村(岩手県陸前高田市)の人とされるが、三男・千葉定吉が生まれたのは陸奥国気仙郡気仙沼村(宮城県気仙沼市)であるため(『千葉定吉身上書』)、はじめ今泉村にいたものが、寛政9(1797)年までに気仙沼村へ移ったということか。またはどちらかが誤りということか。 

●千葉幸右衛門と千葉忠左衛門

 剣豪・千葉周作の父は「千葉幸右衛門」であるという説もあるが、佐藤訓雄氏の研究に拠って、大正4(1915)年成立の『千葉周作遺稿剣法秘訣』の編纂時に、調査員二名が栗原郡荒谷村(宮城県大崎市荒谷)の千葉幸右衛門の子・千葉周作と、千葉忠左衛門の子・千葉周作(北辰一刀流)を同一人物と誤認してしまったために、剣豪・千葉周作の父親も幸右衛門という矛盾を生んでしまったことが判明している。

 なお、水戸藩士の系譜『水府系纂』によれば「千葉周作成政」家の系譜の中で、「忠左衛門成胤」の父親として「幸右衛門成勝」が記載されている。つまり、少なくとも江戸時代末期の千葉周作家には、先祖として「幸右衛門」の名が伝えられていたと思われる。荒谷村に来た亡命者の忠左衛門を幸右衛門が養子としたということなのかもしれない。幸右衛門の家は荒谷村では捕物や「非人取リ締リ」の元締めを行なう家柄(『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏、『秘伝』「古流武術見てある記」島津兼治氏)で、無宿人・忠左衛門も幸右衛門家の厄介になったと思われる。

 忠左衛門が荒谷村を訪れたことについて、「周作が四、五歳の頃、父忠左衛門に手を引かれて、荒谷村にやってきた」という口碑が遺されており(『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏)、時期としては寛政9(1797)年頃ということになる。三男・千葉定吉が生まれたのが寛政9(1797)年であり、定吉の誕生と時を同じくして荒谷村へ渡ってきたのかもしれない。荒谷村へやってきた理由としては「故アリ亡命シテ荒谷ニ来リ居ル」(『東藩史稿』)とのみ伝わっている。やむなく故郷を離れなければならない理由があったのだろう。

 幸右衛門の養子・周作も棒術に長け、千葉周作の公式な伝記ともされる『千葉周作遺稿剣法秘訣』のもととなった調査記録『千葉屠龍先生傳稿』の記載矛盾により、千葉周作の伝とされていた「木刀ニテ飛箭ヲ打落」した伝は、幸右衛門養子・周作の事柄だったとするほうがしっくりくる(『秘伝』「古流武術見てある記」島津兼治氏)

●『水府系纂』の「千葉周作成政」系譜

【住下総】
 千葉良胤――政胤――常行――――忠胤――――成勝――――成胤――――成政
(周之助) (二郎)(勝右衛門)(平左衛門)(幸右衛門)(忠左衛門)(周作)

 忠左衛門はもともと家伝の「北辰流」を修めていたと思われるが、「撃剣ヲ以テ教授ス、北辰無双流ト云フ」(『東藩史稿』)とあることから、「北辰夢想流」の目録者である幸右衛門から北辰夢想流を学んだのだろう。安政5(1858)年正月に「坂本龍馬」千葉定吉(千葉周作弟)から受けた「北辰一刀流長刀兵法目録」(『初見の坂本龍馬書状と北辰一刀流長刀兵法目録』松岡司氏)ならびに、安政6(1859)年11月に「伴野鈴」が受けた「北辰一刀流長刀兵法目録」(『秘伝』島津兼治氏)には「北辰夢想流」の八代目に「千葉忠左エ門成胤(成常)」と記載されている。

●安政5(1858)年正月「北辰一刀流長刀兵法目録」(坂本龍馬への免許)

【北辰夢想流開祖】
 千葉道胤―――――常成―――良胤―――政胤――常行――――成勝――――忠胤――――成胤
(平衛門)   (吉之丞)(周之助)(二郎)(勝右衛門)(幸右衛門)(平右衛門)(忠左衛門

●安政6(1859)年11月「北辰一刀流長刀兵法目録」(伴野鈴への免許)

【北辰夢想流開祖】
 千葉道胤―――――常成―――良胤―――政胤――常行――――忠常――――成勝――――成常
(平衛門)   (吉之丞)(周之助)(二郎)(勝右衛門)(平右衛門)(幸右衛門)(忠左衛門

 ただし、これらの目録では「北辰夢相流開祖」として「千葉平右衛門道胤」が記載され、そのあとが「千葉吉之丞常成」、「千葉周之助良胤」と続く。つまり「吉之丞常成」は北辰夢想流創始者ではなく二代目ということになる。また、『水府系纂』によれば「千葉周之助良胤」は「住下総」とあるので、「千葉吉之丞常成」は下総国の人物と考えられる。

●千葉忠左衛門の江戸移住

 そんな中で、忠左衛門は荒谷村から江戸への移住を計画する。荒谷村を離れたのは「観年十五」とあることから(『東藩史稿』)、文化4(1807)年とされてきたが、三男・千葉定吉が「弐歳」のときに父・忠左衛門成胤に連れられて「御当地」すなわち江戸に出たことが定吉本人が提出した文書に記載されており、移住は寛政10(1798)年だったことがわかる(『千葉定吉身上書』)

 忠左衛門が江戸へ赴いた理由として佐藤訓雄氏(1)災害と飢饉、(2)貧困、(3)亡命者としての身上の安全ならびに自由な天地への憧憬を挙げられている(『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏)。往来手形については、

「忠左衛門一家は、亡命者故に帳外れとなっており、旅や移住に当たって往来手形の下附は困難だった。…(中略)…まず、周作は自分と子の乕吉の往来手形の下附を受けて、富を周作に、弟を乕吉にそれぞれ仕立て替えをしたようである」(『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏より抜粋要訳)

 ただし、これについては大いに疑問がある。

 往来手形には旅人本人の名、菩提寺・庄屋の証、旅の目的、死後の取り扱いなどが記載されているが、一組に一枚の発行であり、同行者は筆頭者との続柄が追記された。場合によってはさらに同行者の名前と年齢を記載する場合もあった。周作は江戸へ着いた時点で六歳、一人で旅する事はありえず、往来手形を用いたとすれば、父・忠左衛門の往来手形を用いてともに江戸へ出たのだろう。往来手形の発行は、忠左衛門が荒谷村周作の伝手で名主または菩提寺に発行を依頼したといういう可能性はあるものの、「周作」「乕吉」の名を敢えて用いた場合、逆に続柄に問題が生じるため、「親子三人(または四人)」との記載だったと思われる。なお、「乕吉」は「トラキチ(コキチ)」であって「テイキチ(サダキチ、ジョウキチ)」とは訓まない

 また、忠左衛門自身は「浦山寿貞」の変名での往来手形を受けて江戸へ向ったとする(『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏)。佐藤訓雄氏は「知人の仙台藩の藩臣浦山某の往来手形を入手して、浦山寿貞になりすまし…」と検証されているが、もし仙台藩士「浦山某」が忠左衛門に往来手形を手配したとすると、浦山某は藩庁から発行された手形を忠左衛門に渡したことになり、これが発覚した場合には「浦山某」自身にも大変な責任が及ぶことになる。「無宿人(当時の称で非人)」である忠左衛門に対し、仙台藩士・浦山某が命を懸けて手形を手配することはなかなか考え難い。

 なお、「浦山寿貞ト相改医業仕罷有」(『千葉定吉身上書』)と千葉定吉が述べているように、忠左衛門は医師となってから浦山姓を称したと推測されるため、奥州からの名乗りではないだろう。「浦山」は忠左衛門妻の実家の姓とする説(『千葉周作弟子三千人の由来』稲本雨休氏著)がある。忠左衛門の時代から百三十年も前の延宝5(1677)年当時になるが、仙台藩士には浦山を称する家が浦山七右衛門浦山彦右衛門の二家あり(『御知行被下置御牒』:「仙台藩家臣録」)、いずれも山形最上家の譜代家臣より出ている。

【仕最上修理義康:七千石】
 浦山弾正―――――――――与左衛門――善左衛門―+=仲右衛門
                         |
                         +―七右衛門(七貫二百五十文)
                         |
                         +―彦右衛門(三貫五百文)

 往来手形の問題については、忠左衛門が江戸に出たとき「浪人」「村方人別」に入っていなかったことが確認できるので(『千葉定吉身上書』)、結局はもともと往来手形の交付はないまま江戸へ出たと推測される。

●千葉忠左衛門と浅利又七郎

糠屋小四郎銘
松戸神社奉納灯篭銘

 忠左衛門は江戸へ出て、「浦山寿貞ト相改医業仕罷有」(『千葉定吉身上書』)「江戸ニ出テ、医ヲ以テ業トシ、又傍ラ撃剣ヲ以テ教授ス」(『東藩史稿』)とあるように、医業と剣術を以て生計を立てていたことが推察される。江戸へ出たことは「御当地」へ罷り越したとあることから、『東藩史稿』の記述のように、江戸で医師を生業としていたのだろう。忠左衛門がどのようにして江戸に入ることができたのか、その手法は不明ながら、幕末期に尊皇攘夷志士・八木晋太郎「医師に扮して了庵と称し…漸く恙なく江戸に入りしも…」(『千葉の灸』)とあることから、医師となれば、江戸に入ることは難しいことではなかったのかもしれない。

 江戸に入ったのちの生活も不明だが、当時、江戸町奉行与力・同心の屋敷地には浪人医師や兵法家、儒者などが間借りしている例が「八丁堀七不思議」として伝えられており、浪人医師にして兵法家・浦山寿貞として、こうした例の一つだったのかもしれない。

 

 そして、江戸在のとき、神田(千代田区神田錦町)の旗本・喜多村石見守正秀に出入りしていた一刀流の剣士・浅利又七郎義信と出会ったという(『千葉周作弟子三千人の由来』稲本雨休氏著)

 その後、忠左衛門は又七郎に二男・千葉周作を入門させ、又七郎は下総国松戸宿の米問屋(荒物屋とも)糠屋源三郎(鈴木源三郎)を紹介したという(『千葉周作弟子三千人の由来』稲本雨休氏著)。糠屋鈴木家は松戸宿の旧家で、安永9(1780)年5月、仙台藩の参勤交代時には藩士の宿所とされている。当代の糠屋源三郎は商家の主人であるのと同時に一刀流の剣士でもあり、婿養子として又七郎の弟・小四郎を迎えている親類関係にあり、糠屋に隣接して浅利又七郎の道場があった。なお、小四郎は文政5(1822)年9月、松戸神社に灯篭を奉納しているので、鈴木家に養子に入ったのはこれ以前ということになる。

 又七郎の弟子となった忠左衛門の二男・千葉周作は、又七郎の養女(小森氏)と結婚して浅利家の婿養子となり、又七郎の師家である下谷練塀小路台東区上野五丁目)の一刀流中西道場に入門、又七郎所縁の喜多村石見守正秀に出仕するようになったという。

梅牛山宝光院

 忠左衛門の動向は松戸で医師になった以降不明であるが、墓碑から天保2(1831)年正月17日、六十六歳で亡くなったことがわかる。法名は医徳院寿本量貞居士。「医徳院」という院号から、医師として松戸宿の人々と交流を持っていた様子が伺える。墓所は松戸宿の名刹・梅牛山宝光院松戸市松戸)。

 

 宝光院にある墓碑は、浅利又七郎妻と忠左衛門二男・千葉周作妻の実家に当たる巴屋小森家の墓域にあるが、墓碑には「寿貞浦山先生」と刻まれ、「初称千葉忠左衛門成胤後冒浦山氏称寿貞」とある。 

 宝光院の過去帳に拠れば、忠左衛門の法事を行なった人物は「浅利又市良」なる人物だったという(『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏)。「又市良」とは、千葉周作が浅利又七郎の養子に入った後の名とされるが、それを示す傍証は残念ながら確認できない。また、周作は文政3(1820)年に浅利家と義絶離縁しており、その11年後に「浅利」姓を称する事はあまり現実的ではない(名を隠して浅利姓当時の名で法要を行なったとの説もある(『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏))。なお、浅利又七郎は千葉周作を真から義絶していなかったという説がある(『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏、『秘伝』島津兼治氏)。 

浦山寿貞 千葉忠左衛門
小森家墓域の忠左衛門墓

 また、墓石に見えるように「浦山氏」「寿貞浦山先生」という他人が建立したと思われる墓碑名と、巴屋小森家墓所に居候するかのように建立されている小さな墓石からは、当時すでに玄武館の館主として隆盛を誇っていた千葉周作自身が父の菩提を弔った様子がうかがえない。そして、「浅利又市良」=「浅利又七郎」であるとし、忠左衛門の法要を行なった人物は、周作と離縁した「浅利又七郎」と同一人物とする説もあるが(『秘伝』「古流武術見てある記」島津兼治氏)、「浅利又市良」=「浅利又七郎」としても、この又七郎はおそらく又七郎義信の養子・又七郎義明(中西子正の子)のことだろう。

 しかしこれが事実としても、なぜ周作が実父の法要を行なわなかったのという謎は解明できない。これについて、「周作を避けて浅利又市良の名を使っているのは、凶状持の親の咎が周作に波及しないように、意図的に遺言によって避けたものと推察される」(『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏)とあるが、同書では、そもそも浦山寿貞と千葉周作は江戸に出てくる時点で「往来手形の偽造」によって別人となり、赤の他人ということになっているはずなので、『剣豪千葉周作』の中でのこの説は矛盾している。

 周作はその前半生を語ることがなかったというが、江戸に出たのちの周作と実父・忠左衛門の関係は不思議なほど見えてこない。道場の運営や弟子の育成のために私財を投じ続けたという周作は、みずからの生活は質素だったという。父との交流や法要も質素に行なったという可能性も否定できない。忠左衛門はひっそりと松戸宿の名刹に眠っている。

●浅利又七郎義信について

浅利又七郎道場
旧松戸宿浅利道場跡と水戸街道

 浅利又七郎義信甲斐源氏浅利家の末裔と称し(『浅利又七郎と千葉周作』青木源内氏著)、安永7(1778)年に下総国松戸(千葉県松戸市)の農家に生まれたとされる。もともと松戸宿の紺屋に奉公し、「紺屋の又さん」とも称されていたという(『千葉周作弟子三千人の由来』稲本雨休氏著)

 しかし、剣術好き(甲斐源氏浅利家の武勇に発奮したとも)から十八、九歳の頃に江戸に出て、下谷練塀小路台東区上野五丁目)の一刀流中西道場三代目の中西忠太の門人となり、その後免許を受けた。そして、「松戸の小山矢切辺に知行地を持つ旗本・喜多村石見守正秀の家中に剣術師範として出入り」(『浅利又七郎と千葉周作』青木源内氏著)するようになり、又七郎は松戸に隠居していた「正秀の祖父の知己を得てから、しばしば江戸と松戸を往復するようになった」(『浅利又七郎と千葉周作』青木源内氏著)という。

 しかし、松戸には喜多村家の知行地はない上に、又七郎が知己となった「正秀の祖父」についても、正秀の養祖父・大之丞正房は明和5(1768)年2月11日に二十八歳、正秀の実祖父・宮原刑部大輔氏義は正徳5(1715)年10月25日に三十七歳でそれぞれ亡くなっている。いずれも又七郎誕生以前に亡くなっており、又七郎が正秀の祖父の知己を得ることは不可能である。松戸に縁も所縁もなく、知己となった伝承でも矛盾を抱える浅利又七郎と喜多村家はどのように関わったのか謎のままである。

 実は、旗本の喜多村家は喜多村石見守正秀の家のほかに、もう一家、奥医師の喜多村家があった。忠左衛門が江戸へ出てきたころ、奥医師・喜多村家は直(安正)が当主を務め、神田三河町(千代田区神田錦町二丁目)に屋敷があった。その喜多村安正の弟を喜多村斧三郎行次(『寛政重修諸家譜』)といったが、喜多村石見守正秀も通称を「斧三郎」といい、同時代に同じ神田に「喜多村斧三郎」が二人いたことになる。これを『千葉周作遺稿剣法秘訣』の編纂者が取り違えたとすれば、浅利又七郎は「喜多村斧三郎行次」の知己となり、忠左衛門は又七郎との関わりの中で斧三郎行次の知遇を得て、その兄で幕府医官・喜多村安正と交流を持ったとすれば、忠左衛門と喜多村家の関わりも見えてくる。

 又七郎は小浜藩酒井家に剣術師範として出仕し、私生活では養女(実姪・巴屋小森氏娘)の聟に忠左衛門の二男・周作を迎えて養嗣子として、江戸の中西道場へ通わせて研鑽を磨かせた。しかし、周作が自らの流派を開くことを決意したことから、又七郎は周作を義絶。師家・中西子正の二男・兜七郎を新たに養嗣子に迎えて浅利家を相続させ、嘉永6(1853)年2月に亡くなった。享年七十六。慶印寺台東区西浅草三丁目)に葬られた。法名は日照。慶印寺は小野派一刀流祖・小野次郎右衛門忠明の子・知見院日忠上人を開山とする日蓮宗寺院であり、又七郎が葬られたのはこうした理由があったものと思われる。慶印寺は現在では長遠山常楽寺新宿区原町二丁目)と併されている。

 なお、又七郎義信の養子となった中西兜七郎は、浅利又七郎義明を名乗り浅利家を継ぐが、彼はその名に恥じぬ一刀流の名手であり、山岡鉄舟の師匠としても知られる。

●医官・喜多村家

 喜多村直信=喜多村直明―喜多村直茂―喜多村直義―喜多村直定―喜多村直方―+―喜多村直美
(安斎)  (法眼)  (珉庵   (安斎)  (一庵)  (安貞)   |(安隆)
                                     |
                                     +―和田正定
                                     |(春長)
                                     |
                                     +―喜多村直――+―喜多村直寛
                                     |(安正)   |(安斎)
                                     |       |
                                     +―喜多村行次 +―栗本鋤雲
                                      (斧三郎)   (哲三)

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千葉成政(1793-1855)

 千葉一族。千葉忠左衛門成胤の二男(『東藩史稿』『水府系纂』)。母は不明(浦山氏とも)。幼名は於菟松、寅松。通称は富、周作、観(『東藩史稿』)。号は屠龍。兄は塚越又右衛門成道、弟は千葉定吉政道北辰一刀流の開祖である。身の丈六尺近く、風采は堂々とし、膂力も並外れており、厚さ六寸の碁盤を片手に持って五十目掛蝋燭を煽ぎ消したという(『千葉周作遺稿剣法秘訣』)

 寛政5(1793)年に陸奥国気仙郡今泉村(岩手県陸前高田市気仙町今泉)で生まれたとされるが、弟・千葉定吉が生まれたのは陸奥国気仙郡気仙沼村(宮城県気仙沼市)であるため(『千葉定吉身上書』)、はじめ今泉村にいたものが、寛政9(1797)年までに気仙沼村へ移ったということか。またはどちらかが誤りということか。 

 幼少時に父・千葉忠左衛門とともに陸奥国栗原郡荒谷村千葉幸右衛門(北辰夢想流の免許皆伝)を頼っている。忠左衛門が荒谷村を訪れたことについて、「周作が四、五歳の頃、父忠左衛門に手を引かれて、荒谷村にやってきた」という口碑が遺されており(『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏)、時期としては寛政9(1797)年頃ということになる。周作の弟・千葉定吉が生まれたのが寛政9(1797)年であり、定吉の誕生と時を同じくして荒谷村へ渡ってきたのかもしれない。荒谷村へやってきた理由としては「故アリ亡命シテ荒谷ニ来リ居ル」(『東藩史稿』)とのみ伝わっている。やむなく故郷を離れなければならない理由があったのだろう。

 その後、「観年十五」(『東藩史稿』)の年、つまり周作が十五歳になった文化4(1807)年、父・忠左衛門とともに江戸へ向ったという。しかし、その移住時期については周作の弟・千葉定吉が鳥取藩庁へ提出した文書によれば、定吉が「弐歳」のときだったことが記載されており、一家の江戸移住は寛政10(1798)年だったことがわかる(『千葉定吉身上書』)

 なお、周作には荒谷村にいたころの伝がある。

(一)佐藤孤雲と千葉周作(『千葉周作遺稿剣法秘訣』)

 ある日、「父」の幸右衛門(忠左衛門のことか、小田島幸右衛門のことか不明)と親交のあった名士・佐藤孤雲が千葉家を訪れた。このとき幸右衛門は「自分の子三人のうち、家名を興すことができる子は誰かを鑑定して欲しい」と人物鑑定を頼んだ。さっそく孤雲は、又右衛門、於菟松、定吉の三人の行動をつぶさに観察した結果、二男の於菟松がどうも他に抜きんでているように見えた。そこで孤雲は部屋に周作を招き入れ、於菟松が近づくや、太刀を一閃し於菟松の目の前に突きつけた。これに於菟松は落ち着いて何事かと問うたという。孤雲はこれを見て微笑み、幸右衛門には於菟松がもっとも見込みがあることを告げたという。

 ほかにも、荒谷村千葉家の裏には妙見神を祀った祠があったというが、荒谷明神(斗螢稲荷神社)がそれだという。「斗螢」とは北斗七星=妙見神の輝きを表していると思われる。この斗螢稲荷の下に清流があり、村の子どもたちは夏になると川で泳いで遊んでいたという。

(ニ)甕蜂退治の事(『千葉周作遺稿剣法秘訣』)

 しかし、周作十一、二歳頃のある年、川の脇に立つ木の上に、甕蜂(キイロスズメバチ)が巣を作ってしまった。その大きさは一斗樽ほどもあったという。村の子どもたちは蜂を恐れて川に近づくことができなくなってしまった。これを見た周作は、子どもたちのために蜂を除いてやろうと考え、子どもたちとともに蜂の巣がある木の下まで行くと、一尺あまりの棍棒を持って木をよじ登り、巣のすぐ下の枝に立った。周作に気がついたスズメバチは次々に巣を出て周作に襲いかかった。しかし周作は冷静に手にした棍棒を振るって次々に蜂を撃ち落した。こうして落ちていく蜂がまるで風に散る雪か花びらのように見えたという。たちまちのうちにスズメバチを全滅させた周作は、その巨大な巣をもぎ取り、悠々と下に降りてきた。身にはひとつの刺傷もなかったという。周作の豪胆さと技量を伝えるエピソードである。

(三)矢落としの事(『千葉周作遺稿剣法秘訣』)

 十五、六歳の頃、周作が桜ノ目村(宮城県古川市桜ノ目)を訪れたとき、ある仙台藩士の屋敷の的場で弓の稽古が行われていた。周作が足をとめて覗いてみると若い武士たちが互いに弓の腕を競っている。その競い矢の様子をじっと眺めていると、ひとりの武士が尊大な態度で「お前も弓が好きか?」と問うてきた。この尊大な態度に周作の癇に障り、軽く一礼すると、「少しは心得ているが、あなた方の弓鋒は実に鈍い、いざというときには何の役にも立つまい」と答えたという。若者たちはこれに怒り、「無礼な奴である。では俺たちの射た矢が役に立つかどうか試してやるから、矢先に立て」と迫った。周作は「簡単なことだ」と木刀を提げて的場の中ほどに立った。これを見ていた老人たちは「えらいことになってしまった」と呟くが、もうどうすることもできないので、息をのんで見守っていた。

 若者たちは弓をとって矢場に立ち、弓に矢を番えると、周作に向けて次々に射た。まさにイナゴの群れが飛び掛っていくようであったという。しかし周作は少しもあわてず、高めの矢は身をかがめ、低い矢は足を上げて避け、真ん中にきた矢は軽く打ち落とした。敏捷な動きは目にも止まらぬほどであったという。矢を射つくした若者たちに周作は、藩士たちに「ご無礼の段、何卒お許しください」と丁寧に礼を述べ、屋敷をあとにした。藩士たちは言う言葉もなく引き下がったという。

  しかし、このとき一部始終を見ていたとある武士が周作に声をかけ、「今のような武芸は未だ見たことがない。あなたは恐らく根からの農民ではありますまい。宜しければ生まれなどお教えいただきたい」と聞いてきた。周作は礼儀正しいこの武士に礼を返すと、「今こそ百姓の子倅ですがもとは武家の血を受けております。多少武芸を学んだのみで、お褒めに預かるほどでもございません」と答えた。この武士は「そうであろう、今後も修行に励んで天晴れ武芸者になられるよう心がけなさい」と告げると立ち去った。彼は藩老遠藤家の一族で遠藤十次といい、弓道や和歌の名人として知られていた人物だったという。遠藤十次はこの日、高清水邑主の石母田家を訪れたのち、弓の競いに来ていたのであった。

 上記の伝記のうち(一)(三)については、『千葉周作遺稿剣法秘訣』のベースになった調査記録『千葉屠龍先生傳稿』と異なる記述になっている。(一)については周作自身の出自の矛盾、(三)については周作の江戸行時の年齢との矛盾があり、『千葉周作遺稿剣法秘訣』では、この矛盾をもみ消したり改竄したりしている事実がある。おそらく千葉周作の伝であるとされた上記のような事柄は、幸右衛門の跡を継いだ養子・周作の事柄だったとする方がよいようだ(『秘伝』「古流武術見てある記」島津兼治氏)。

●周作の江戸行き

 周作は寛政10(1798)年、父・忠左衛門に連れられて「御当地」すなわち江戸へ下った(『千葉定吉身上書』より推定)。この江戸行きの際、忠左衛門が「浪人」で人別がなかったため、荒谷村千葉家当主「千葉周作」が出身を偽造した往来手形を発行するために、富に自分の名「周作」、弟に自分の子の「乕吉(貞作)」の名を与えて、菩提寺に手形を発行してもらったとする(『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏)。また、父・忠左衛門は「知人の仙台藩の藩臣浦山某の往来手形を入手して、浦山寿貞になりすまし…」て江戸へ向かったという(『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏)。これで、帳外れは解消されたとあるのだが、ここで疑問点が生まれる。

(1)忠左衛門が江戸へ出たとき、忠左衛門は「村方人別」に入っていない「浪人」であったことが判明している。

(2)「浦山某」なる人物が仙台藩士であった場合、彼は藩庁から藩公の花押の入った手形が給付されるため、これが発覚した場合には「浦山某」自身にも大変な責任が及ぶことになる。「無宿人(当時の称で非人)」である忠左衛門に対し、仙台藩士・浦山某が命を懸けて手形を手配することは考え難い。

(3)周作の弟「定吉」について、荒谷村周作の子「乕吉(貞作)」の名を以って道中手形を発行してもらったとあるが、「乕」は「虎」の異字体のため、「乕吉」は「トラキチ」または「コキチ」と読み、「テイキチ(サダキチ、ジョウキチ)」とは読まない。

 忠左衛門が名乗った医師名・浦山寿貞の「浦山」は、忠左衛門妻の実家の姓とする説(『千葉周作弟子三千人の由来』稲本雨休氏著)がある。また、「周作」という名については、忠左衛門が世話になった荒谷村周作に因んで貰ったと推測する。浦山寿貞、周作、定吉が往来手形のためにそれぞれの名を騙ったということは現実的ではない。たとえ往来手形の発行を受けたとしても、続柄を記載する事は却って不利な条件となることから、結局は往来手形は持たずに江戸へ入ったと考えることが自然だろう。

 無宿人の父・忠左衛門がどのような伝手で住居を構えたのかはわからないが、当時の八丁堀には「八丁堀七不思議」として「儒者、医者、犬の糞」というものがあり、江戸町奉行与力は屋敷地の一部を儒者、医師、画師、兵法家、手跡指南などに貸し出していた。寿貞もこうした一人だったのかもしれない。「浦山寿貞ト相改医業仕罷有」(『千葉定吉身上書』)「医ヲ以テ業トシ、又傍ラ撃剣ヲ以テ教授ス」(『東藩史稿』)とあり、医業と剣術の技能で生計をたてるようになったのだろう。

●一刀流との出会い

 周作は江戸に出たときはわずか七歳だったが、おそらく父・忠左衛門について剣術の手ほどきを受けたと思われる。その後、忠左衛門が小浜藩酒井家に出入りしていた一刀流の名士・浅利又七郎の知遇を得て、周作はその門下に加わったとする。

浅利又七郎道場
旧松戸宿浅利道場跡と水戸街道

 その後、浅利又七郎から下総国松戸宿善照寺門前の荒物屋(米問屋とも)・鈴木源三郎を紹介され、松戸へ下ったと思われる。鈴木源三郎は浅利又七郎の弟を養子(小四郎)としており、また又七郎と同様に一刀流の剣士でもあった。その敷地内に道場を構え、周作はこの道場で一刀流を学んだという。

 その後、周作は又七郎に見込まれ、松戸宿の酒造・巴屋小森庄蔵の娘を自分の養女として周作の妻に娶らせ、夫婦養子とする。巴屋小森家は浅利又七郎の妻の実家でもあり、周作と又七郎は二重の縁で結ばれたことになる。さらに、又七郎の推薦で、下谷練塀小路台東区上野五丁目)の一刀流中西道場への入門を果たし、中西忠兵衛の門下生となる。

        【中西派一刀流】
         中西子正――――浅利義明
        (忠兵衛)   (又七郎)
【糠屋】             ∥
 鈴木源三郎===鈴木小四郎   ∥
      +―(鈴木家継承)  ∥
      |          ∥
      +―浅利義信     ∥
       (又七郎)     ∥
        ∥        ∥
        ∥――――――――娘
 小森某――+―娘
      | 
      |【巴屋】
      +―小森庄蔵―――――娘 
                 ∥―――――+―千葉成之
                 ∥     |(栄次郎)
                 ∥     |
        千葉成胤――――千葉成政   +―千葉光胤
       (忠左衛門)  (周作)     (道三郎)

浅利小笠原鈴木
浅利小笠原鈴木姓の供養碑

●一刀流相伝系図(一刀流中西家)

御子神典膳忠明-小野忠常―小野忠於-小野忠一―中西子定―中西子武―中西子啓―中西子正

 中西道場には寺田五郎右衛門白井亨高柳又四郎といった技量を持った剣士が在籍しており、彼らとの修行に明け暮れることになる。とくに、高柳又四郎は相手の竹刀が触れないうちに勝負に勝つところから「音無の構え」とされるほどの剣士だったが、周作は彼との試合の中で、後足を踏み込む際に道場の床板を踏み破るほどの気迫を見せ、中西忠兵衛はこの床板を切り取って飾り、手本としたという。

 こうした修行の中で、周作は「一刀流」と、家伝の「北辰流」を組み合わせた新しい流派「北辰一刀流」を開くことを決意した。これに対して、師である浅利又七郎は、一刀流と師・中西忠太への冒涜であるとして、周作を義絶したという。この義絶については、実は円満な縁組解消であったとする説もある。

 

●北辰一刀流を開創

 周作は北辰一刀流をひらくと、弟子とともに武者修行の旅に出て、武蔵・上野などで他流試合を重ねたとされ、とくに文政5(1822)年正月に訪れた上野国での剣術修行が知られ、伊香保神社への扁額掲揚計画に反発した上州生え抜きの馬庭念流との抗争が知られる(『千葉周作遺稿剣法秘訣』)

玄武館道場跡
玄武館道場跡

  文政5(1822)年、周作は日本橋品川町「北辰一刀流」の道場を開き、その三年後の文政8(1825)年、神田お玉ガ池玄武館道場を開いた。八間四方の広い道場で、懇切丁寧な指導と巧みな剣技に定評があった。また、すぐ隣に東條一堂の漢学塾「瑶池塾」があり、玄武館で剣術を学び、隣の瑶池塾で詩文・儒学を学ぶといった風があった(『千葉周作遺稿剣法秘訣』)東條一堂亡きあとは、玄武館が瑶池塾の敷地も取り込み、広さ一町四方に及んだという。周作の孫・千葉勝太郎は明治11(1878)年当時の東松下町二十八番地、明治14(1881)年当時では東松下町五十四番地中央区神田東松下町)に三百坪あまりの土地を有していた。おそらくこの地が玄武館道場だったとおもわれ、現在玄武館道場跡の碑のある位置よりもやや西に位置する。

 周作の弟・千葉定吉も周作とともに北辰一刀流の創設に尽力し、彼自身ものちに別道場を構え、道場のあった京橋桶町にちなんで「桶町千葉」とよばれるようになる。そして、千葉周作・定吉兄弟の北辰一刀流は「到る處に出張所を設け」て繁栄を極めることとなる(『千葉の名灸』)

 天保6(1835)年、周作は門弟・臼井新三郎を従えて水戸を訪れて藩学弘道館で水戸藩士を相手に武技を披露し、水戸藩隠居・徳川斉昭の知遇を得て、剣術師範として招聘され、月俸十人扶持を支給され、天保12(1841)年6月1日「以處士千葉周作為馬廻賜百石」とあり(『水戸藤田家旧蔵書類』)馬廻格百石の水戸藩士として召し出されている。彼が斉昭の面前で大筒を軽々と扱ったことに、列座の面々は度肝を抜いたという。

 弘化元(1844)年5月、徳川斉昭は幕府の譴責を受けて、江戸駒込邸に謹慎の身となったが、時折周作を召して武芸を観て楽しんだ。また、斉昭は周作へ直々に中風の灸法を伝授したという。この灸法が弟・千葉定吉に伝えられ、定吉からその子、千葉重太郎・千葉さなへ伝授。千葉さなはこの水戸徳川家伝来の灸法を以って、のち千住に「千葉灸治院」を開き、「ちばのめいきう(千葉の名灸)」として評判になった。

千葉周作墓
本妙寺千葉周作の墓

 嘉永4(1851)年10月28日、周作は斉昭に召されたとき、奇蘇太郎孝胤、栄次郎成之、道三郎光胤、多門四郎道胤の四子と門弟を引き連れて罷り越し、斉昭の面前で数番の試合を行なった。奇蘇太郎以下、妙技を戦わせるが、とくに末子の多門四郎はわずか十歳ながら人々を驚かせる妙技を披露したという。斉昭は周作を傍に呼ぶと、周作の子息門弟に対する教育方法を賞賛した。斉昭亡きあとも、水戸藩公・徳川慶篤の信任厚く、四人の子が召抱えられている。

 安政2(1855)年11月29日、周作は中奥出仕とされるが、その後まもない12月13日に亡くなっていることから、このころにはすでに病気となり、致仕を前提とした栄進かもしれない。享年六十六。浅草誓願寺内仁寿院に葬られた。法号は高明院勇譽智底教寅居士。のち、豊島区巣鴨の日蓮宗寺院・本妙寺に移された。

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千葉光胤(1835-1872)

 水戸藩士。千葉周作成政の三男(『水府系纂』)。母は小森庄蔵娘。通称は道三郎。妻は水戸藩士・立原杏所娘

 安政2(1855)年9月4日、「兄死スル」によって嫡子と定められた。この「兄」とは、2月14日に亡くなった奇蘇太郎孝胤の事と思われるが、道三郎の同母兄・栄次郎成之がすでに「別株」として一家独立していたため、部屋住みだった道三郎が嫡子と定められたと思われる。

 11月29日、兄・栄次郎とともに床几廻役に任じられる。この日、父・周作は中奥番に就いている。しかしこのころ周作は体の調子があまり思わしくなかったのだろう。わずか半月ほどのちの12月13日、六十二歳で亡くなっている。

 すると、安政3(1856)年2月4日、嫡子・道三郎は亡父・千葉周作の家督を継ぎ、家禄百石を給され、小普請組入りしたのち、5月1日、改めて定府の馬廻役に就き、江戸へ上った。

 安政4(1857)年6月、武芸指南の労に対し白銀三枚を賜る。

 安政6(1589)年12月、故老公徳川斉昭簾中・貞芳院が江戸屋敷から水戸へ戻る供回りに加わり、水戸へ戻る。

 文久2(1862)年正月11日、兄・栄次郎とともに大番格となるが、翌日に栄次郎は三十歳の若さで病死している。周作も同様だが、水戸藩には死の直前に栄転させる風習があったのかもしれない。栄次郎家は栄次郎の死から約二か月後の3月9日、嫡男・千葉周之助之胤が家督を継いで、十両五人扶持を給され小普請組に入り、翌文久3(1863)年2月、藩公・徳川慶篤に従って江戸に上った。

 明治維新を乗り越え、明治5(1872)年8月17日、三十八歳の若さで亡くなった。

玄武館道場跡
玄武館道場跡

 道三郎亡きあと、玄武館は海保帆平、井上八郎らの名剣士が預かったが、剣を必要としない世の中となった上に、明治6(1873)年7月31日、東京府が一切の撃剣興行を禁じた。こうした背景があったのか、玄武館からは門弟が流出。さらに、道三郎の跡を継いだ千葉勝太郎は十一歳にして病のため失明していたため、後継者がおらず玄武館は閉鎖されたが、勝太郎は玄武館の広大な跡地を引き継いでいる。

 なお、勝太郎は宮内省侍医・岡本元資に弟子入りして鍼術を学び、神田小川町一番地に鍼医院を開いた。さらに、杉山鍼按学校を開設し、日本の鍼灸養成の礎を築いた名士となった。また、千葉家のルーツ探訪にも熱心で、又従兄弟の塚越三治とともに、荒谷村の千葉周作家と交流を持った。

 玄武館は、栄次郎家の千葉之胤が明治16(1883)年9月23日、神田錦町一丁目十番地再興する。之胤は明治12(1879)年2月13日、清掃業を担う会社・潔進社の立ち上げを東京府に申請するなど実業家として名を見せている(『清掃請負社設立願』)。しかし、この玄武館も江戸末期に隆盛を極めた姿には遠くおよばず、結局閉鎖され、北辰一刀流は水戸藩校弘道館の剣術方教授をしていた小澤寅吉によって水戸東武館に継承され、現在に到る。


●ありがとうございました
 あさくらゆう様(『千葉の名灸』『鳥取藩政史料』等のご教授ならびに助言をいただきました)

●参考文献

『剣豪千葉周作 生誕地の謎を明かす』(佐藤訓雄 宝文館)
『東藩史稿』
『仙台藩家臣録』
『水府系纂』
『千葉周作遺稿剣法秘訣』
『千葉周作父子江戸への道行』(『松戸史談47』)
『千葉周作研究文献と松戸宿小森家の謎』(『松戸史談48』)
『千葉周作弟子三千人の由来』(稲本雨休氏著『松戸史談6』)
『浅利又七郎と千葉周作』(青木源内氏『松戸史談14』)
『松戸宿小森家の謎 庄蔵のその後(一)』(辻淳氏『松戸史談49』)
『陸前高田市史』
『丹波山國隊史』(水口民次郎著)
『鳥取藩政資料』
『千葉一胤家譜』
『千葉重太郎一胤略伝』
『組帳』
『藤岡屋日記』
『松戸市史』
『各地地主名鑑』
『東京地主案内 区分町鑑』
『東京地主細覧』
『海舟日記』
『続再夢紀事』
『水戸藤田家旧蔵書類』
『秘伝』(島津兼治氏連載文「古流武術見てある記」 株式会社BABジャパン)
『初見の坂本龍馬書状と北辰一刀流長刀兵法目録』(松岡司氏『日本歴史』45)
『玄武館出席大概』(『清河八郎』)
『山国隊と千葉重太郎』(宮川禎一氏『歴史読本』54)
『龍馬の剣の師千葉定吉・僚友千葉重太郎の墓確認に寄せて』(西内康浩氏『土佐史談170』)
『坂本龍馬と「北辰一刀流長刀兵法目録」』(土居晴夫氏『土佐史談170』)
『明治五年六月官員全書改』
『開拓使日誌 地』(『新北海道史』)
『職員録 明治十四年』
『職員録 明治十五年』
『職員録 明治十七年』
『東京市及接続部地籍地図』
『東京市及接続部地籍台帳』
『地所分割買上に付地券書換願』
『千葉の名灸』
『御達留』
『塵海』
『征東日誌』
『贈従一位池田慶徳公御伝記』
『原六郎翁伝』


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