| 平良文 | 平忠頼 | 平将恒 | 平武基 | 秩父武綱 |
| 秩父重綱 | 秩父重隆 | 葛貫能隆 | 河越重頼 | 河越重房 |
| 河越泰重 | 河越経重 | 河越宗重 | 河越貞重 | 河越高重 |
| 河越直重 |
●秩父惣領家略系図●
比企遠宗―――比企尼――――――娘
∥―――――河越重房
∥ (太郎)
●平将恒――平武基――秩父武綱――秩父重綱―――秩父重隆―――秩父能隆―――+―河越重頼
(太郎) (太郎) (十郎) (留守所) (留守所) (葛貫別当) |(留守所)
|
+―娘
∥―――――小代弘家
小代行平
(????-????)
陸奥介平忠頼の子。母は平将門次女とされる。室は足立郡司判官代武芝娘とも(『氷川神社書上』)。通称は大蔵太郎(『千馬家系図』)、秩父六郎(『西角井系図』)。官途は武蔵権大掾(『千馬家系図』)。
長元元(1028)年、上総国府(千葉県市原市惣社)に乱入して「長元の乱」を起こした平忠常の兄弟にあたる人物である。
父・平忠頼の本拠があった武蔵国に拠点を持ち、武蔵権大掾であったという。国司の一員として影響力を行使していたのだろう。「長元の乱」は将門の「承平の乱」とは違い、紛争が房総半島に留まっていたためか、将恒が兄弟の平忠常に加担した様子は見えない。
治安3(1023)年4月、武蔵国で武蔵介藤原真枝が勅命に反したため、党類を率いて武蔵国豊嶋郡で真枝一党を滅ぼし、恩賞として駿河国益頭郡・武蔵国豊嶋郡・上総国埴生郡・下総国葛西郡を賜ったとされる(『千葉大系図』)が、藤原真枝という人物については伝がないため不明。
(????-????)
武蔵権大掾平将恒の長男。母は足立郡司判官代武芝娘(『氷川神社書上』)。通称は太郎、秩父別当大夫。官途は武蔵介とも。
+―平良持――平将門
|
|
+―平良文――平忠頼――平将恒
∥――――平武基――平武綱――平重綱
武蔵武芝――娘
源基経――源満仲―――源頼信――源頼義――源義家
武蔵国の勅旨牧である広大な秩父牧の別当職に就任したという。また、子息の平武綱が「秩父武者十郎」と号したと伝わっていることから、武者所に出仕していた可能性もある。また、国司(武蔵介)にも就いたという。
永正6(1051)年からはじまる「前九年の役」では武基は弟の平武常(豊島氏・葛西氏の祖)、常任(小山田大夫)とともに出陣するが、武常・常任は乱戦の中で討死を遂げたという。武基のその後は伝わっていないが、子の平武綱は源義家に従って奥州清原氏の内紛「後三年の役」に出陣し、義家から白旗を賜って先陣として活躍した。
「前九年の役」とは、奥州六郡の支配者・安倍頼良が陸奥守藤原登任の命に従わずに兵を挙げたことを発端とする陸奥国の騒乱である。陸奥守藤原登任は大敗して陸奥守を解任され、都に召還された。代わって朝廷は摂関家侍衛の臣・源頼義を陸奥守に任じて奥州に派遣すると、頼良は歯向かわずに降伏。頼良は名前が頼義と「ヨリヨシ」という訓で繋がるのを畏れ多いとし、「頼時」に改めたほどで神妙であった。この出陣に際して、頼義は関東の武士を動員しており、武基はじめ、下総の平常長(上総氏・千葉氏の祖)、相模の平為通(三浦氏の祖)らが頼義に従って出陣していたという。
頼時の降服の後、奥州は平穏を保っていたが、天喜2(1054)年、頼義の陣を何者かが襲い馬を強奪して去っていった。その後の詮索で、犯人は頼時の嫡男・安倍貞任とされたため、濡れ衣として怒った頼時・貞任を中心に安倍一族はふたたび兵を挙げ、奥州再乱「後三年の役」となった。
この戦いで、記録に残る頼義の主な郎従は下記の通り。
●前九年の役での源家の主な郎党(『陸奥話記』)
| 名前 | 略歴等 |
| 修理少進藤原景通 | 安倍頼時、貞任の軍勢に源氏勢が追い詰められたとき、源頼義・義家に従った五騎の一人。頼義の馬が射られたとき、自分の馬を頼義に渡した。御家人・加藤氏の祖。 |
| 大宅光任 | 安倍頼時、貞任の軍勢に源氏勢が追い詰められたとき、源頼義・義家に従った五騎の一人。遁れるとき、義家とともに敵兵数騎を射殺し、虎口を脱した。 |
| 清原貞広 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。安倍頼時、貞任の軍勢に源氏勢が追い詰められたとき、源頼義・義家に従った五騎の一人。 |
| 藤原範季 | 安倍頼時、貞任の軍勢に源氏勢が追い詰められたとき、源頼義・義家に従った五騎の一人。 |
| 藤原則明 | 安倍頼時、貞任の軍勢に源氏勢が追い詰められたとき、源頼義・義家に従った五騎の一人。義家の馬が射られたとき、敵の馬を奪い取って義家に渡した。 |
| 散位佐伯経範 | 相模国人。頼義の厚遇を受けた人物で、頼義に仕えて三十年、年齢も「耳順(六十歳)」となり、安倍勢に追い詰められた際には、ここが死に場所とばかりに敵陣に斬り込み戦死した。相模国の波多野氏の祖と思われる。 |
| 藤原景季 | 修理少進藤原景通の長子。年齢は二十余歳、言葉少ない寡黙な青年で、騎射に長じていた。安倍勢に追い詰められた際には敵陣に討ち入り捕らえられた。敵勢はその武勇を惜しんだがついに斬られた。 |
| 散位和気致輔 | 頼義の郎党。敵陣に討ち入り討死した。 |
| 和気為清 | 頼義の郎党。散位和気致輔の孫。敵陣に討ち入り討死した。 |
| 藤原茂頼 | 頼義の腹心。戦場を馳せ回っているうちに戦いは源氏方の敗戦となり、茂頼ははぐれてしまった。頼義がすでに戦没したものと思い込み、頼義の遺骸を得るためににわかに剃髪して、僧侶として戦場を走り回り、なんとか頼義と合流することに成功した。 |
| 散位平国妙 | 頼義の郎党。出羽国人。武勇あふれる人物で善戦し、敗北知らずであった。そのため、俗に平不負、字を平大夫と呼ばれた。しかし、黄海合戦で馬が斃されて捕らえられ虜となった。そのとき、敵将で婿の藤原経清(奥州藤原氏祖)によって助けられた。「武士猶以為耻矣」とされた。 |
| 平真平 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 相模国の中村氏、土肥氏とも関係があるかもしれない。 |
| 菅原行基 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
| 源真清 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
| 刑部千富 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
| 大原信助 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
| 藤原兼成 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
| 橘孝忠 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
| 源親季 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
| 藤原朝臣時経 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
| 丸子宿禰弘政 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
| 藤原光貞 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
| 佐伯元方 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
| 平経貞 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
| 紀季武 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
| 安倍師方 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
この中に武基の名は見ることはできないが、多くの「坂東精兵」が附き随っていることがわかる。「坂東」には下級武官出自で源氏の摂津時代からの一族郎従の末裔と思われる大宅氏、佐伯氏、和気氏、藤原氏、源氏、丸子氏のほか、国司層が土着したと思われる藤原氏、菅原氏、平氏、紀氏、安倍氏、橘氏、郡司層が出自と思われる刑部氏、大原氏など多様な出自の郎従がいたことがうかがえる。武基のその後は不明である。
(????-????)
秩父別当平武基の長男。通称は秩父武者十郎。
応徳2(1085)年、奥州清原氏の内紛に陸奥守源義家が介入して起こった「後三年の役」に、真っ先に義家の陣に参上し、白旗を給わって先陣をつとめた人物。治承4(1180)年、武綱の子孫・畠山重忠が頼朝に降伏した際にこの旗を持参し、頼朝から所縁を問い質されたとき、重忠は、
「君が御先祖八幡殿、宣旨を蒙りたまひて武平、家平を追討せしむる之時、重忠が四代祖父秩父十郎武綱、初参して侍りければ、此の白旗を給ひて先陣を勤め、武平以下の凶徒を誅し候了」(『源平盛衰記』)
と述べたという。頼朝はこの故事にならって、
「頼朝日本国を鎮むほどは、汝が先陣を勤むべし」(『源平盛衰記』)
と、今後は重忠を以って先陣を勤めるように命じた。武綱のその後の行動は不明である。
(????-????)
秩父武者十郎武綱の長男。妻は兒玉別当大夫行経娘。通称は秩父出羽権守。武蔵国留守所惣検校職。
父祖以来、地盤を固めてきた秩父平氏であったが、重綱の代になってはじめて武蔵国留守所惣検校職に就いたようである。重綱の子孫である「河越三郎重員」が、寛喜3(1231)年4月2日、留守所本職四ヶ条について近年廃れて執行されていないことを嘆き、先例の通り執行すべきことを北条泰時に申状を提出して訴えた。泰時はさっそく岩原源八経直を武蔵国留守所に派遣して、重員が訴えた四か条の職掌が重員の先祖伝来のものかを確認させたところ、
「留守所自秩父権守重綱之時、至于畠山二郎重忠、奉行来之條」
という返答が在庁の日奉實直、日奉弘持、物部宗光、留守代帰寂よりあった(『吾妻鏡』)。このことから秩父氏が留守所惣検校職をつとめたのは重綱の代からということになろう。
留守所惣検校職の職務は、武蔵国司の留守に諸政を見る留守所を預かる重要な職掌であるが、その具体的な「四箇条」の職務内容は不明である。一般に貞永元(1232)年12月23日、河越重員から三郎重資へ与えられた「武蔵国惣検校職並国検時事書等国中文書之加判及机催促加判等之事」という文中より、
| (1) | 武蔵国惣検校職の地位 |
| (2) | 国検時の事書 |
| (3) | 国中への文書へ加判する |
| (4) | 机催促(?)に加判する |
この四か条が留守所惣検校職の職掌であるとされている。「武蔵国惣検校職」と「武蔵国留守所惣検校職」が同一のものかは不明だが、(1)武蔵国惣検校職の「地位」は「職掌」ではなく、さらに(2)国検時の事書と(3)国中文書加判は同列に位置するものと解釈(国検時の事書等の国中文書の加判)されるため、重資へ譲られたものは、
(A)武蔵国惣検校職
(B)武蔵国内発給の文書への加判、
(C)机催促(軍勢の催促か?)への加判
以上の三種であったと推測され、(B)(C)は留守惣検校職という地位自体に付随する職掌ではないと思われる。
彼ら秩父平氏が本拠としていたところは、長男・平重弘は男衾郡畠山郷(埼玉県大里郡川本町畠山)に住んで畠山氏を称していたことから、国府から離れた男衾郡や大里郡であったと思われる。重綱はおそらく国衙留守所に出仕していたと思われ、国衙により近い武蔵国南部へ勢力を広げている。比企郡嵐山町の平沢寺より発掘された経筒には、「久安四年(1148)歳時戊辰二月廿九日」の年紀ならびに「當国大主散位平朝臣茲縄」の名が刻まれている。「平朝臣茲縄」は重綱のことであると推定され、武蔵国に隠然たる勢力を持つ「大主」であったことがうかがえる。「當国大主」はすなわち留守所惣検校職をあらわすか。
嘉禄2(1226)年4月10日、河越重員が武蔵国留守所惣検校職に補せられた際に、「秩父出羽権守以来、代々補来」の職であるとしているが、ここに見える通り重綱が「出羽権守」であったとすると、重綱は受領として出羽国に赴任していたということになる。重綱の父・武綱は「後三年の役」で源義家に従って奥州へ出陣し、白旗を給わって先駆けたという伝承も伝わり(『源平盛衰記』)、東北との関わりもないわけではない。久安4(1148)年当時、重綱は「散位」であり、すでに官職を退いてはいるが、五位相当の地位を保有していた。出羽守は従五位下相当であり、守の遥任としての権守であったとすると、出羽介(従六位下相当)との比較で見ても、可能性は否定できない。
秩父党の勢力は荒川・入間川の水系に沿って開拓されており、弟・基家は相模国境の地である荏原郡河崎郷(神奈川県川崎市)を開発し、河崎氏の祖となった。次男・重隆は入間川の水利を利用して河越郷(埼玉県川越市)を開発、四男・重継は荒川河口付近の江戸郷(東京都江戸川区)を開発した。
一方、三男・重遠は兄弟たちとは反対に北の上野国高山郷(藤岡市高山)を開発して高山を称している。秩父氏が上野方面にも勢力を拡大していたことがうかがえる。また、高山郷はのちに帯刀先生源義賢が京都から下って館を構えた上野国多胡館(群馬県多野郡吉井町多胡)に直線で約7キロと程近く、義賢は秩父党、とくに高山三郎重遠と交流があって、この地に下ってきたと推測される。義賢の遺児で信濃国木曾で兵を挙げた木曾冠者義仲は、治承5(1181)年、越後国から信濃国に攻め込んできた平家党の越後平氏・城越後守資職と千曲川の横田河原で合戦したが、このとき義仲方として「上野国住人高山党三百騎」あまりが参戦し、城資職に加担していた老将・笠原平五頼直一党八十五騎と交戦した。頼直は寡勢にもかかわらず奮戦し、高山党は九十三騎にまで討ち減らされたという。ただしこの高山党の中には「上野国住人西七郎広助」という「俵藤太秀郷が八代末葉、高山党に西七郎広助」がおり、上野国高山党とは高山氏のみで構成されたものではなかったようである(『源平盛衰記』)。
●兒玉党系譜(『小代宗妙置文』)
有道遠峯―+―兒玉弘行――兒玉家行
(有貫主) |(有大夫) (武蔵権守)
|
+―有道経行――女子 秩父権守号重綱(室)也 彼重綱者高望王五男村岡五郎義文五代後胤
(有三別当)(号乳母御前) 秩父十郎平武綱嫡男也、
秩父権守平重綱為養子令相継秩父郡間改有道姓移テ平姓、以来於行重子孫稟平姓者也、
母秩父十郎平武綱女也
下総権守 秩父平武者 武者太郎 蓬莱三郎 母江戸四郎平重継女也、
行重 行弘 行俊 経重 経重者畠山庄司次郎重忠一腹舎兄也、
(????-1155)
秩父権守平重綱の次男。通称は次郎大夫。武蔵国留守所惣検校職。
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| 武蔵大蔵館跡 |
兄に畠山庄司重弘があったが、重隆が留守所惣検校職を継承しており、重隆が秩父党の惣領であったと推測される。そして、重隆は上野国多胡郡(群馬県多野郡吉井町多胡)に住んでいた帯刀先生源義賢に娘を嫁がせて大蔵館(埼玉県比企郡嵐山町大蔵)に迎え、義賢を「養君」として推戴し、周辺豪族たちをその支配下に組み込んでいったと考えられる。
しかし、この義賢の動きをみていた鎌倉の鎌倉悪源太義平(義賢の兄・義朝の嫡子)は、義賢の殺害を計画し、久寿2(1155)年8月16日、郎党を率いて鎌倉から比企郡大蔵に攻め下り、義賢と重隆を斬殺した。このとき、義平の陣中には重隆の甥・畠山重弘が祖・平武綱が義家より給わった源氏の白旗をたなびかせて参戦しており、秩父党惣領をめぐって敵対心理があったと思われる。
義平は重隆を討つとき「小代ノ岡(埼玉県東松山市正代)」に「御屋形」を造って移り住んだとされ(『小代宗妙置文』)、徐々に武蔵国に侵略の手を広げていたことがうかがえる。
****************************************
源義賢(????-1155)
源義賢は六條判官源為義の次男で、源義朝の異母弟にあたる。母は六条大夫重俊娘。武芸に優れ、とくに弓の上手のうわさが高く、保延5(1139)年、体仁親王(のち近衛天皇)立太子に際して、その親衛隊長ともいえる春宮坊帯刀舎人の長官(帯刀先生)に補された。しかし、その翌年に殺人事件に関与したとして解任され、その後は内大臣藤原頼長(のち左大臣)に伺候し、康治2(1143)年に能登国にあった頼長の荘園の預所として赴任した。しかし、久安3(1147)年には年貢が納められなかったために解任。ふたたび頼長のもとにもどった。
仁平3(1153)年、坂東で威勢を振るっていた上総御曹司源義朝(義賢の兄)が従五位下・下野守に任官して上洛したため、義賢が代わって関東へ下った。しかし、義朝の本拠地・相模国鎌倉郡には、三浦氏や上総平氏と結びついていた義朝の長男・鎌倉源太義平が居座っていたためか、武蔵国多胡郡に落ち着いて、武蔵国随一の威勢を誇る秩父重隆と交流を持った。そして重隆の聟となって比企郡大蔵に館を構えて勢力を広げたが、久寿2(1155)年8月16日、義賢の勢力拡大に反発した鎌倉の甥・源義平に大蔵を攻められて討死を遂げた。
この大蔵館の戦いでは、義賢の庶子・駒王丸が乳母に抱かれて脱出、信濃国木曾郡の中原三郎兼遠のもとで成長して「木曽冠者義仲」と名乗った。また、義賢の嫡男・仲家は摂津源氏の惣領である源頼政の養子となって、八条院蔵人として京都で活躍。治承4(1180)年5月に以仁王・源頼政が打倒平家を謳って挙兵した「以仁王の乱」では、頼政に従って出陣し、平等院の戦いで嫡子・蔵人太郎仲光とともに討死にした。この戦いでは千葉介常胤の子・園城寺の律静房日胤も戦死している。
(????-????)
秩父次郎大夫重隆の嫡男。通称は葛貫別当。
「葛貫」は現在の埼玉県入間郡毛呂山町葛貫のことと思われ、その地にあった官牧・葛貫牧の別当職にあったと思われる。能隆は惣領重綱の子ではあるが、武蔵国留守所惣検校職を帯していた形跡は見られない。久寿2(1155)年8月に父・重隆が討ち取られると、討手に加わっていた重能によって秩父氏の実権を握られたのかもしれない。能隆の諱には秩父氏の中でもめずらしく「重」字が用いられていない代わりに「能」の字があり、重能が彼に偏諱したことによって、重隆流秩父氏を我が勢力に取り込むことを謀ったのかもしれない。ただし、名は「義隆」ともされる文書(『小代文書』)もあり、源義賢から「義」をもらった可能性もある。
小代行平―+=小代俊平
(八郎行蓮)|(小次郎生蓮)
|
+―小代弘家 母葛貫別当平義隆女河越太郎重頼妹也…
(小太郎)
○武蔵七党発祥の秩父氏○
秩父行重(????-????)
通称は平太。武蔵七党・兒玉党の兒玉別当大夫行経の子。妹が秩父権守重綱の妻となっていた関係から、弟・平四郎行高とともに重綱の養子となり、秩父氏を称した。時代的に見て行重の妹は重綱の後妻であったろう。この兒玉行経娘は「悪源太殿称御乳母人」とあり、重弘の子・重能が秩父惣領・重隆に反発して義平と結んだ背景には、義祖母が悪源太義平の乳母であった関係があったのかもしれない。
●兒玉党系譜(『小代宗妙置文』)
有道遠峯―+―兒玉弘行――兒玉家行
(有貫主) |(有大夫) (武蔵権守)
|
+―有道経行――女子 秩父権守号重綱(室)也 彼重綱者高望王五男村岡五郎義文五代後胤
(有三別当)(号乳母御前) 秩父十郎平武綱嫡男也、
秩父権守平重綱為養子令相継秩父郡間改有道姓移テ平姓、以来於行重子孫稟平姓者也、
母秩父十郎平武綱女也
下総権守 秩父平武者 武者太郎 蓬莱三郎 母江戸四郎平重継女也、
行重 行弘 行俊 経重 経重者畠山庄司次郎重忠一腹舎兄也、
●兒玉党と秩父党系譜
兒玉経行―+―保義
(別当大夫)|(兒玉)
|
|【秩父重綱の養子】
+―秩父行重―――――秩父行弘―――秩父行俊
|(平太) (平武者) (武者太郎)
|
|【秩父重綱の養子】
+―秩父行高
|(平四郎)
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+―娘(悪源太殿称御乳母人)―――→源義平
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∥ |
秩父重綱―――秩父重弘――――――畠山重能
(権守) (太郎大夫) (畠山庄司)
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